エルム街の悪夢


フレディという強烈な個性、リアリティを持たせた設定、夢を使った恐怖演出、数々のトリック撮影、ウェス・クレイブンの代表作のみならず、ホラー映画の名作にも名を連ねる作品。フレディというキャラはジェイソンと並ぶ映画の殺人鬼になり、後にロニー・ユーが『フレディVSジェイソン』として、2人を対決させた事も話題になった。そのフレディだが、ものすごくインパクトに残る造形である。ヘンテコな形の帽子に焼けただれた顔、赤と黒の服、武器は手に爪のように付けられたナイフだ。「フレディがやってくる〜」と子供達に歌われるくらい、彼は子供達の恐怖の対象として描かれている。

だが、この作品は『エルム街の悪夢』というタイトルからも分かる通り、悪夢をモチーフにした作品である。作品自体もどこが現実でどこが夢なのかわからないように撮られている。単純にフレディという怪物に追いかけられる作品ではない。フレディという個性はあくまで物語のコマとして使われる。実際に悪夢を見て死んだ事件を元に脚本を執筆したらしいが、それだけでは映画になりにくい。そこでクレイブンは“夢の中で殺人鬼に襲われ、夢の中で殺されると、現実でも殺される”という強烈な設定を思いつく。孤軍奮闘という言葉があるが、まさに『エルム街の悪夢』の主人公達は夢と戦う。夢は1人で見る物だ。誰ともその怖さを共有出来ないし、誰も夢が現実に襲ってくるなんて考えられないので、誰も彼らの事を信用しない。両親ですら、娘はイカレたと思う。『エルム街の悪夢』が怖いのは、誰からも信じてもらえない状況で最大の恐怖と戦わなくてはならないところだ。

そして、その夢に説得力を持たせるため、クレイブンはありとあらゆるトリック撮影をする。いきなり悪夢に苛まれるシーンから映画は始まり、ホラー映画で見られたクリシェを存分に使って演出。そしてソフトフォーカスとスローから通常の撮影に切り替わるというデ・パルマも真っ青の技術から物語は動き出す。ここが凄まじいのは、これをワンカットでやってるという事である。カットが変わらない事で夢と現実の境界線を曖昧にし、映画自体が夢なのか現実なのかわからないようにしている。こういった細かい演出の数々がこの作品の魅力の1つだ。

さらにそれだけじゃない、細かい演出とは真逆の映画にしか出来ない強烈な演出も多い。風呂に入ってたら、いきなり風呂が底無しの海みたいになってて、溺れるとか、ベッドから血が吹き出して、天井を覆うと言ったイメージがとにかく強烈で、こういう荒唐無稽な演出のお陰で。映画を観ている事を再認識させられる。

その説得力についてだが、この作品が素晴しいのは主人公達が大凡映画の主人公とは思えないキャラというところ。単純に、普通の人と言えばいいだろうか、『アメリカン・ビューティー』でアメリカの中流家庭の現実を描いていたが、『エルム街の悪夢』に出てくるキャラ達も当時のアメリカの家庭そのものだ。親同士はうまくいっておらず、母親は酒に溺れている。最愛の両親がすでに信用出来ないという設定がリアルで、この設定のお陰で主人公の孤独感が増しているのだ。

ジョニーデップはこの作品が映画デビュー作。昨今、デップ、デップと騒いでるミーハーな人はこの初々しいデップに驚くはずだ。『燃えよドラゴン』のジョン・サクソンも威厳ある父親を演じきっている。

エルム街の悪夢』にはさらに決定的な設定があるのだが、これはネタバレになるので割愛させていただこう。

ホラー映画のヒット作とあなどるなかれ、繊細な演出とダイナミックな映像が噛み合った上質の娯楽作だ。好き嫌いには別れるだろうが、映画自体は細かい部分も含め、とてもよく出来ている。傑作だ。