ファイトクラブの答えがここに!

『クローズZERO』の最初の方で暴れまくる不良に対して先生が怯えるっていうシーンがあるんだよね。この演出ってさ、実は無理に入れなくてもいいんだよ、だって映画の中の世界だったら演出次第でどういう事も出来るんだから。別に先生なんて出さなくても、そういう事になってるのはいくらバカな頭でもわかるわけ、『パイカリ』でレイプしまくりだった極悪人の海賊をヒーローにする事だって出来るんだからさ、でもね、そういう演出をわざわざ入れてる。これって『ファイトクラブ』に対するアンサーなんじゃないか?

ファイトクラブ』ってブランドとか身につけたり、学歴があったり、社会的な地位を手に入れても、それは個人そのものではない!結局、そういうものを全部取っ払って優劣をつけるとしたら、裸になって殴り合い、強いヤツがリーダーになる!っていう映画だったでしょ?『ファイトクラブ』は爆弾でテロを起こして、それで終わるけど、結局体制がひっくり返った世界を描いてはいない。『マトリックス』と一緒で、体制に甘んじているな!目覚めろ!民衆ども!で終わってる。

『クローズZERO』の鈴蘭高校が社会なら、先生は体制側のメタファーになり、ケンカで暴れ回る生徒は民衆だ。結局彼らを押さえつける権力がなくなってる。学歴もなければ、金も社会的な地位もなくなった世界が鈴蘭高校。

つまり『クローズZERO』という映画はそういう世界で勝ち残るのは力の強いヤツだ!という事を提示した映画で、『ファイトクラブ』で問いかけた事のアンサーになる。

これってかなりすごい映画だと思うんだが、オレだけだろうか?今の映画評論家は勝手な憶測と無茶苦茶なレトリックでふざけた事を書くが、私は奇を衒ってるわけではなく、三池崇史という監督が『IZO』という映画を撮り、プロデューサーの山本又一郎が『太陽を盗んだ男』の脚本にGOサインを出してるからこそそういう設定もあり得るんじゃないかと思っている。

そういう思想が少なからずあったとするならば、それを『クローズ』という有名な原作で小栗旬という半ばアイドルのような俳優を使って作った三池崇史は天才であり、マーロウものを『第三の男』にはめ込んだアルトマンと並ぶ異端児だと思うのだが、どうだろう。