SHAOLIN GIRL is DEAD!!

10時30分より『少林少女』鑑賞。

主演は日本を代表する女優となった感がある柴咲コウ。監督は『踊る大捜査線』の本広克行で、エグゼクティブ・プロデューサーとして『少林サッカー』のチャウ・シンチー、このメンバーでタイトルが『少林少女』この時点でどんな作品か分かるし、非常にいいところに目をつけたと思う。実際チャウ・シンチーは名前だけ貸してるだけだろうが、こういう映画は絶対にいっぱい作ったほうがいい。そして、すべてのシネコンカンフー映画ばっかり上映されるようになれ。

よく考えたら、この『少林少女』は日本製のカンフー映画だ。西部劇をイタリアで作ったマカロニウエスタンのようなものだろう。そういう部分も非常に買うのだが、

観た感想は――――

ファック!!

この映画にはカンフーがドラゴンが、そしてそれらに対する愛がまったく足りない。『スキヤキウエスタン ジャンゴ』と一緒。監督がそこまでカンフー映画寄りじゃない感じだ。まず『少林サッカー』の話になるんだが、実は『少林サッカー』はカンフー映画じゃない。でもカンフー映画の魂が、ブルース・リーの魂がそこにある。『少林サッカー』は世間ではバカバカしい映画だと思われてるかもしれないが、実は明確なメッセージがある。資本主義社会ではカンフーが強くてもなんの役にも立たないけど、男はみんなああいうモノに憧れるというメッセージだ。

昔は映画を観た後はその主人公になり切ってしまうような強烈な映画が多かった。『仁義なき戦い』『燃えよドラゴン』『男たちの挽歌』————映画館を出た後、肩で風切ったり、ヌンチャクを振り回したり、マッチ棒をくわえてみたり、強烈に刷り込まれる。ところが映画が、シネコンが、家族向けのモノになり、純愛映画が増え始め、そういう映画が当たらなくなってしまった事で、映画は人生に影響を及ぼさなくなった。むしろ忘れ去られてしまう節があった。日本で言えば血まみれの時代劇になるだろうし、香港映画だったらブルース・リーカンフー映画である。

少林サッカー』は少林拳の達人が今の中国では乞食同然の生活をしているというシーンから始まる。そう、子供の頃に憧れたヒーローを目指してそれになっても、それで金を稼ぐというのは難しい。でも、それでもみんな、ブルース・リーに憧れたじゃないか!そのボンクラ魂を忘れるな!————そういうメッセージが『少林サッカー』にはあった。そのチャウ・シンチーの想いとCGというツールが組み合わさって、究極のエンターテインメントへと昇華したのだ。実際香港では『少林サッカー』は歴代第1位の興行収入をあげる。

んで『少林少女』にはそういう想いや明確なメッセージがちっとも見当たらない。設定はほぼ一緒なんだけど、かつて少林拳の達人だった人達は、『少林サッカー』ほどダメにもなってないので、金儲けも出来ない拳法の達人のボンクラが、その秘めた力を最大限に利用して勝ち上がるというカタルシスが皆無。もちろん『少林少女』ではそれがラクロスになるんだけど、もうどーでもいい。

ハッキリ言ってこれは少林サッカー』はサッカーだったんだから、じゃあそれをラクロスにすればいいんじゃない?という製作陣の意図しか見えないのだ。それが見え始めたらとたんにバカにされてるような気分だった。

こういう映画を見せてやろう!という心意気が見えない以上。あとは『少林サッカー』の劣化版以下。脚本も壊滅的に悪いため、そのキャラの心情や展開にフルマックスの無理が生じる。もっとギャグもてんこ盛りにするのかと思いきや、その部分は全部岡村隆史に担当させてしまったのもどうかと思う。実際『少林サッカー』ではヴィッキー・チャオをもギャグにしてたし。それを柴咲にさせろよ!

そして、『少林少女』のもう1つの弱点は、カンフー映画にしてしまった事だ。

少林サッカー』はさっきも言った通り、カンフー映画ではない。カンフー魂を注入しただけ。『少林サッカー』でカンフー映画のおもしろさ、ブルース・リーの偉大さを再認識させたチャウ・シンチーは、同じ想いを今度はそのまんまカンフー映画に昇華させる。それが『カンフー・ハッスル』だ。確かに『カンフー・ハッスル』は伝統的なカンフー映画として破綻してる部分もあるが、CGを使い、チャウ・シンチーらしさも存分に発揮された完全オリジナルな作品。『少林少女』は『少林サッカー』と『カンフー・ハッスル』の要素を混ぜ込んでしまったがために、いいとこ取り!にはならず、とても中途半端な仕上がりになってしまった。ハッキリ言って、二番煎じだという事を分かったうえで、ラクロスの話にするか、カンフーだけに絞った方が絶対によかった。

前半『少林サッカー』で後半は『カンフー・ハッスル』になるのだが、いったいどういう事がしたかったのかよく分からない。カンフー映画をやりたかったのか?それとも『少林サッカー』のようなエンターテインメントを目指したのか?意図が明確になってない以上。1つの作品として成立させるのは難しい。

もちろん良い部分もある。まず柴咲コウ。ぼくは意外と様になってたような気がする。少林拳の型を披露するシーンがあるが、ホントに練習した跡が見られ、アクションもがんばっていた方だ。江口洋介も容姿から男前風の拳法の先生という感じで良かったし、岡村隆史のアクションは1番上手く、映画の中でもっともカンフー映画らしいシーンになっていた。後半の100人バトルも日本映画で観られると思わなかったし、クライマックスの水のシーンにしたって、ちゃんと香港映画のショーケースになってる。見せ方はいまいちだけど、方向性としてはまったく問題ない。

『少林少女』はホントにいい素材があるのにもかかわらず、脚本と演出に振り切ってる感がないので、ものすごい宙ぶらりんな中途半端な作品になってしまった。音楽やCGまで『少林サッカー』になってたから、いっその事チャウ・シンチーに監督させればよかったのに!

というわけで、だんだん書いてる内に熱量が下がって来たのだが、『少林少女』は『スキヤキウエスタン ジャンゴ』と同じように、ジャンル映画を日本独自のものに昇華するという事は出来なかった。これだけのプロジェクトだったのに残念でならない。もう二度とこういう事は繰り返さないように、この映画に関わったヤツらは死ぬ気で反省すべし、あういぇ。