ハローグッバイ

『あなたが生きているこの世界に僕はなんどでも感謝するんだ』


『ドーナツの穴ぼこは存在か空白か?』と、ドーナツは穴も含めてドーナツと呼べる物なのか?確かにそうだ。存在という言葉ほど曖昧な言葉はない。そこに無い物が場合により、存在し、在るはずの物が場合により、無かったりする。人間だって、一体何が人間としての存在を示すのだろうか。


『ぼくの抱える穴が、意味のある存在だったら、どんなにいいだろう。救われるよ。』


BUMP OF CHICKENの言葉を借りるならば『名前と誕生日とキュートな指紋』そう、それだけで、人間とは、個人とは存在し得るものなのか?


例えば、私は人間という存在は言葉から成るもんだと前に書いたのだが、言葉なんぞ、空虚なものに過ぎず、心の底から吐き出しては、それは宙に消えていく。ところが、その宙に消えていくはずの物が人間という存在を形成している物の一部になる。誰もが使ってる組み合わせが、その人のアイデンティティを形成し、ネットの中においてブログという1つの存在になる。


藍坊主の『ハローグッバイ』“自分という存在”“自分が居るはずの世界”へ疑問を投げかける。
自分は何故この世界に居るのだろう?何のために生まれたのだろう?


『木枯らしは木枯らしで、アリはアリで、ネコはネコ、けどぼくは、いまだに、ぼくになれない』


木枯らしといえば、誰もがアレだなと具体的にその存在を思い浮かべ、アリは誰もが知ってるアレだ。アリは誰が見てもアリ、猫もそうだ。猫は誰が見ても猫なのだ。でもそれとは別に「自分」という存在は生物学的な人間とは違う何かに思える。自分が理想にしているものがあったとして、僕はそれに近づいていけない。これは「何訳分かんない事言ってるんだ」という言葉では片付けられない。何故なら、言葉は違えど、BUMP OF CHICKENも『ダイヤモンド』『天体観測』『LAMP』『メーデー』などで、ひたすらに自分の中のくすぶってるもう1人の自分について歌い続けてるからだ。


『あなたが生きているこの世界に僕はなんどでも感謝するんだ』


『ハローグッバイ』はそんな複雑な人間の感情や悩みを抱えながらも、好きな人が生きてる世界に感謝する。自分という存在や生きてる事とは何なんだろう?と問いかけながらも、それとは別な次元で人を愛し、その人が居るこの世界に感謝する。


この曲に対して『すごく共感する』という人は絶対的に少ない気がする。何故ならば、普段、人間は自分の存在についてとことん突き詰めたり、自分が生きてるこの世界について深く考えたりしないからだ。


だから、どうしようもない言葉で作られたくだらない曲が巷に溢れていくわけなんだけれども、


私は『あなたが生きているこの世界に僕はなんどでも感謝するんだ』というフレーズで何度泣いた事か。生きてる事や出会えた事に感謝する歌は数あれど、その世界そのものに感謝する歌というのはそうない。この歌に非常に似ている世界観を持つ歌はスピッツの『空も飛べるはず』だろう。スピッツの『空も飛べるはず』は世界に絶望した僕が君に出会った事で救われたという歌ではあるが。どっちにしろゴミできらめく世界だろうが、そのゴミがなければ出会える事はない。


だから私はこの世の中がどんなにゴミだとしても、あなたに出会えたこの世界と奇跡に感謝している。



『ハローグッバイ』の歌詞



ハローグッバイ

ハローグッバイ

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