ジャージの二人


10時に『ジャージの二人』鑑賞。私の職場の連中は口を揃えていまいちと言ってたが、

いやぁ、すげぇいいよ!これは現代に生きる人が絶対に観るべきだと思う。

アヒルと鴨のコインロッカー』を観た時も思ったけど、中村義洋監督は絶対にジャームッシュが好きだと思う。『アヒルと鴨のコインロッカー』には『ダウン・バイ・ロー』っぽさがあったけど、『ジャージの二人』には『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がある。主人公達がジャージというのも『ブロークン・フラワーズ』に影響されたのかもしれない。というよりは原作から得たインスピレーションが結びついたのか…

昨今、『どうぶつの森』がヒットしたり、スローライフという言葉が流行ったりしているが、『ジャージの二人』にはそのスローライフの中で他者とのつき合い方と人間同士の繋がりについて提示する。

ジャージの二人』の中で、こんな台詞がある。兄妹らしい歳の離れた二人が会話するシーンだ。

兄『お父さんとお母さん仲良くやってるの?』

妹『知らない』

兄『一緒に住んでるんだろ?』

妹『一緒に住んでたって分からないよ』

兄『オレだって、離れてるんだから余計わからないよ』

細部は違ったかもしれないが、『ジャージの二人』が言いたい事はこの台詞の中に込められている。

だって、よく考えると、オレ、親父達の事とか友達の事なんもわかってないもん。

1回、友人のおかんに、

「あんたんとこのお母さんホントにおもしろいよねぇ、私大好きらわぁ」

と言われた事があるが、オレはおかんの事はちっともおもしろいと思った事ないので、おかんって家じゃああだけど、外じゃ違うんかな?とか考えた事がある。それはおかんもオレに対して同じ事思ってるだろう。

親父が会社でどういう立ち振る舞いしてるとか、過去に何があったとか、全然分からない。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』でも出て来たが、過去にお父さんが殺し屋だった可能性だって否定出来ない。ヤクザやってたかもしれないし、実はムショに居た事があるかもしれない。

最近『迷子の警察音楽隊』という映画でもこういうテーマはでてきたが、家族とか、血がつながってるとか、何十年一緒に居たとしても、

やっぱり人間って絶対に分かり合えない生き物なんだと思う。

んで、人間って絶対に一人じゃ生きられないけど、死ぬまで孤独というか、他人とは分かり合えないまま、虫けらのように死んで行く生き物なんだなと。

これは私だけの考えじゃなくて、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ノーネーム』とか、ZAZEN BOYSの『半透明少女関係』でも歌われて来た事だ。前者が言いたかった事は、人が繋がり合うという事は、星座のように、点と点が結び合って、線が出来て、それがたくさん出来て、1つの形になるけど、星座には名前があるのに、人と人とのそれには名前がない。という、結局つながっても名前すら付かない。歌の最後に「名前をくれよ」と出てくるが、これはアジカン後藤の本音だと思う。

後者では、もっとハッキリ出てくる「オレと貴様は関係ない」でも「関係持ちたい」と。その他者との関係性はハッキリ見えないものだけど、だからといって、無いわけじゃない。だから透明じゃなくて、半透明なんだと。アジカン後藤は星座に例え、向井秀徳は半透明という言葉で歌う。

Mr.Childrenも『名もなき詩』で「どれほど分かり合える同士でも 孤独な夜はやってくるんだよ」って言ってるし。

ジャージの二人』はジャームッシュの映画のように、立ち入った関係を持たなければ、そこにある空間を楽しく過ごそうとするだけの付き合いがあり、それは家族であっても、夫婦であっても根本は同じ。ジャームッシュの映画の主人公達は一見親友に見えて、些細な事で関係が壊れる。それは女だったりするんだけど、

人間同士が持つ繋がりって実は緩くて、ホントに些細な一瞬で全部壊れる。

裏切りとか、妬みとか、欲とか、そんな事で、

彼らの家にトウヤマさんという人が訪ねてくるが、彼女がそれを象徴していて、

トウヤマさんは絶対に主人公達の家に入ろうとしない

そう、昔から知ってるし、付き合いは長いけど、家にあがりこむまでの関係は持ってないのだ。人と人とがつながる関係というのは不思議なものである。

他にそれを分かりやすくしてるのは携帯電話だ。『ジャージの二人』は避暑地で夏休みをすごす親子の話だが、携帯がつながらない場所に別荘があって、それがホントに象徴してるというか、携帯がつながらなかったら、誰ともつながってない感じになるじゃないっすか。「連絡とれないや」で終わるでしょう。心配するかもしれないけど、家にまで行かないもん。
っていうか、携帯だけでつながってる人は家も知らないし。

んで、映画の中である場所に行くと、携帯がつながるっていうシーンがあるんだけど、そこがかなり遠くて、わざわざそこに行って、携帯の電波を探すんだけど、そこで分かるのが、ほんとに重要な人だったら、やっぱりそこまで行って連絡するんだよね。映画の中ではそれは重要な人物との連絡なんだけど、それは別に誰であれ、連絡録りたければ面倒でもいくもん。

だからネットだけでつながってる人も携帯だけでつながってる人もいるけど、やっぱり人間って分かり合えないだろうし、顔もしらないコニュミケーションがあるけど、

それでも繋がらないよりはいいじゃねぇか!

ジャージの二人』には説明がいっさい無い。だからさっきも「兄妹らしい」と書いた。まず主人公達がどういう家族なのかまったく分からない。夏の間何しに行ってるのかも分からないし、いったい、この人たちは何者なんだろう?というのが連発される。

でも、ホントにそうだもん。実はみんな家族の事、全部知らないでしょ。そういう事なんだよ。多分、監督も分かってないと思うよ、あのキャラ達の事。親父がジャージにこだわりがあるとか、毎日ファミコンしてるとか、よくわからないもん。

だからよくわからない事が、映画の肝というか、自分が体験してる何かで、『ジャージの二人』はそういった意味でよく出来た映画だと思う。傑作とは呼べないがいい映画。というか、これを「緩い」とか「何も起こらなすぎ」って言うのは間違った感想じゃないかなぁ。

演出がおもしろくて、ジャージを着るシーンとかわざわざスローにして、ガイ・リッチーの『ロックストック〜』みたいな音楽かけて、これから仕事だ!みたいな感じにしたり、スーパーにジャージで行く時もタランティーノの『レザボア』のようにストップモーションにして音楽かっこ良くしたり、分かってるねぇ!みたいなギャグが小気味いい。

あと筆写体を軸に回り込むようなカメラワークを得意とするが、それも出て来て、1枚の絵としてもおもしろいシーンが連発されてて、絵としてもおもしろかった。

続けて『ひゃくはち』鑑賞。野球部の補欠を主人公にした映画。

井筒和幸監督が本来映画ってのは隅っこで虐げられてるヤツにスポットを当てるもんなんや!って言ってて、それはホントにその通りだよ!って思ったが、まさにそんな感じで、

スラムダンク芸人の時に、アンガールズの山根が小暮のキャラを説明する時に、

「みんなこの人に感情移入してたと思うんすよ、だって、生きてる人のほとんどが、レギュラーじゃなくて、補欠なんですから」

と言ってたが、いや、ホントにその通りで、

いやぁ、それ以外に説明出来ないが、『ひゃくはち』観て号泣しました!

破綻してる部分もあるし、一本筋の通ったプロットじゃないから散漫な印象も受けるが、レギュラーになれないのに練習に打ち込む主人公達は、、、

『ROOKIES』よりも輝いてたぜ!

という事で、2本観たけど、今日はさらにレイトショーの『容疑者Xの献身』を観ようと思います。