復讐するは我にあり

復讐するは我にあり [DVD]

復讐するは我にあり [DVD]

9時に起きて麻婆豆腐を喰らい、DVDで『復讐するは我にあり』を鑑賞。弁護士や大学教授と偽って、5人を殺害し、80万円をだまし取った実際の殺人犯西口彰の逃亡劇をモデルにした小説の映像化。今村昌平緒形拳の代表作にして、日本映画史に残る傑作中の傑作である。

復讐するは我にあり』は父を信じ、神を信じたクリスチャンである榎津巌が、両方に絶望する。軍の為に船を差し出せと命じられた父は、最初は断固拒否するものの、お国のためにという言葉を言わせられ、最終的に船を差し出してしまう。神よりも軍人が偉いのならば、それを信じてる父やオレはなんなんだ?と、人や神など、何もかも信じられなくなった榎津巌。劇中で榎津巌の妻が言う。「絶望は一番の罪」

神に、そして父に絶望した男。絶望する事さえも罪になるならば、一体何を信じればいい?

根津巌は神に逆らうように人を殺し、騙し、女を喰い物にする。彼の殺人には動機がない。恨みもない人を殺して金品を奪う。

それはまるで神はこの世には居ないという事を誇示するかのようだ。神の存在を信じつつ、心のどこかでは神の不在を感じ、自分の事を裁いてくれと願いつつ、神に裁かれない事を分かっている榎津巌。彼が逮捕されるシーンから始まるこの映画だが、まるで自分が死刑になる事を恐れてないような態度で刑事と話す。それはまるで、オレは神に復讐される前に人に裁かれて死ぬ。ほら、神はオレの事を裁かなかったじゃないかと言わんばかりの態度だ。

復讐するは我にあり』という言葉は新約聖書に登場する。

愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。

録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』

という言葉である。

悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう

という意味があるらしい。というか、コピペなのだけれど。

榎津巌は悪だろう。しかも恨みや妬みなどない、殺人を犯す、純粋な悪だ。彼は人を殺す事などなんとも思ってない。さらに彼が殺した人の中には過去に殺人を犯したものまでいる。そんな被害者だって、罪の無い人じゃない。やはり悪なのだ。

人が人を殺すとき、そこには必ず恨みや妬みなど理由がある。いわゆる動機と呼ばれるものだ。ところが、倫理感や道徳のかけらもない殺人が行われたとき、マスコミは必ず“加害者が抱える心の闇”という言葉を使い、その犯行が行われた理由を突き詰める。そこに理由が無かったとしても。

悪に対して悪で報いてはならない。悪を行った者に対する復讐は神がおこなう。

榎津巌は死刑になる。だが、これは神の復讐じゃない。法律の名の下に彼は死んだだけだ。

榎津巌には妻がいる。一度刑務所に入り別れたのだが、獄中に居る間、巌の父が戻って来てくれと懇願し、彼女は巌の父が経営する温泉旅館に戻ってくる。だが、戻って来た理由は巌でなく、義理の父の為、、、そう、彼女は義理の父を愛してしまうのである。巌と結婚しておきながら、、、、

巌は父にも妻にも裏切られ、一番憎んでいたはずの2人を何故か殺さない。自分にとって殺すに値する人間(映画の後半にも出てくるのだが)は殺さず、彼は理由なき犯行を続ける。つまりそれが父に対する彼の復讐であり、それが神に対する挑戦なのだ(と、思う)

今村昌平はまるで狂気を全身に帯びたように映画を演出する。実際に殺人が行われた場所で殺人シーンを撮ったり、駅をまるまる横浜に作り替えて、電車の中から駅を出るまでワンカットで撮ったり、ある意味で凝っている。

役者はその演出に応えるように極限の演技を披露する。やはり緒形拳はホントにホントに素晴らしいのだが、三国連太郎倍賞美津子など、キャスト全員が、ヒース・レジャー松田優作級の演技をする。

こうやって観ると緒形拳が亡くなったというのが未だに信じられないのだが、『復讐するは我にあり』って好きだなぁ。