『天体観測』の歌詞を分析するその2


これの続き。

ネットでよく出て来る解釈を突き詰めると矛盾が生じるというのが前回までだったので、ここで時間軸も行動も入り乱れている歌詞から、客観的に起こっている『天体観測』の状況を書いてみる事にする。ここでは『僕』と「君」が一体何者なのか?という事には触れず、1つのキャラとして、書いていくにする。


1番:午前二時に「君」と二人で天体観測をしに行く。深い闇に飲まれないように精一杯なのは「君」であり、その手を握ろうとしたけど、握れなかったのは『僕』。行動として起こってるのは、フミキリ(またはその近く)で『僕』と「君」が天体観測をして、予報外れの雨に打たれて、静寂と暗闇の中を帰る←何故帰るのかは後述。この時に、暗闇と予報外れの雨が“痛み”になってるのは「君」で、『僕』もその「君」の手を握れなかった事を“痛み”としている(両者に“痛み”が発生、ここでの痛みはメタファー。「君」の“痛み”は闇への恐れと雨に降られた裏切り。『僕』の痛みは救えなかった事の後悔。)「握ろうとした あの日は」という言葉が出て来るので、これは「君」と二人で天体観測をした事を『僕』が回想しているという事になる。


2番:ここでは行動は描かれない。よく読んで行くと、天体観測という行為が何かを探し続ける事のメタファーだという事が分かる。「君」の手を握れなかった『僕』が、人と言うのは生まれてから死ぬまで、何かを探し続けるんだという事を訴える。それは幸せや哀しみだが、それを探す時、必ずなんらかの痛みが発生していて、痛みを人は忘れる事が出来ない。望遠鏡を覗き込んで探しているのは、見えないモノ、知らないモノ、見えてるモノ、の三種類だが、それらは「イマ」があるからこそ探す事が出来るんだという事を説明している(だから「イマ」というほうき星は「探している」んじゃなくて、「追いかけてる」)2番で望遠鏡を覗き込むと出てくるが、これは比喩であり、実際、望遠鏡を覗き込んでいない。なぜ覗き込んでいないのかは後述。


Cメロ:ここも『僕』の心情。「背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった」事から、やはり成長した『僕』が回想していた事が明らかになる。明らかになるが、宛名のない手紙は、誰に当てた手紙なのかは分からない。「君」という言葉が出てこないので、自分に当てた手紙とも解釈できる。ただここで分かるのは、『僕』が過去に起こった何かを昨日の事のように思い出しているということだけだ。


3番、1回目のサビ:成長した『僕』がもう一度望遠鏡を持ち出し、天体観測をしに行く。何処へ天体観測をしに行くのかは、まだ分からない。何かに駆り立てられて行く事だけが描かれる。「望遠鏡をまた担いで」と出てくる事から、2番の歌詞に出てくる望遠鏡は比喩的なものである事がここで明らかになる。「静寂と暗闇の帰り道を駆け抜けた」という事から、1番で行った天体観測は雨のせいで帰った事もここで明らかになる。つまり3番で起こってる行動というのは、1番で帰って来た道を今の『僕』が駆け抜けているという事。「君の震える手を握れなかった あの日を」と出て来ているので、「君」の手を握れなかった事を“痛み”としている『僕』が、それを忘れられず、それに支えられて、駆け出したというのが、心情と行動だ。「「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている」というのは、2番で言ってた“常に人は何かを探し続けている”という事の反芻である事も分かる。なぜなら、ここではまだ「君」に会えてないからだ。


3番、2回目のサビ:帰り道を駆け抜けた『僕』がもう一度「君」に会いに行く。「前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ」と書かれているので、ここで分かるのは、同じ場所に今の『僕』が「君」に会いに行っているという事だ。フミキリを漢字にしなかったのは、まったく同じ場所である事を誇示するためだと思われる。「始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも  「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてる」ここで分かるのは、会いに行ってるのが、あの日の「君」であるという事。何故ならば、二分後に「君」が来ない事は誰が読んでも明らかなので、あの日“痛み”から救えなかった『僕』があの時の「君」と二人でもう一度追いかけてるというのが行動だろう。


これが『天体観測』の歌詞で表面的に書かれている事だ。簡潔に書くと、僕と君が天体観測をして、雨に打たれて帰って、大人になって、僕はあの時手を握れなかった事を悔やみ、もう一度同じ場所に行き、あの日の君と天体観測をしているという事。ここまで書いたところでいよいよ『君』が誰なのかについて核心に迫ろうと思う。


分析その5:藤原基央の発言「少年たちの成長を歌った唄」*1
ここで藤原基央の発言を引用。少年たちの成長を歌った唄。徐々に分かって来た。少年たちという事は、「君」は自分ではなく、誰かである事が分かる。『僕』の友人が「君」なのだ。もし自分の中の自分の歌であれば、「少年たち」とは発言しないはずで、「少年の成長を歌った唄」という発言になるはずである。


分析その6:PVの内容

『天体観測』のPVは歌詞の内容に沿った物になっており、少年の時にBUMP OF CHICKENの4人が天体観測をし、その4人がまた大人になって、同じ場所で演奏しているというものになっている。少年時代と現在はカットバックで平行に描かれ、さらにドラムはモーフィング、残りのボーカル、ギター、ベースの3人はオーバーラップにより、一人一人の成長の様子を演出している。PVの内容は一人の子供(成長時ドラム)が親の都合で転校する事になるが、仲間内に何かの鍵を渡す事で、その日にとどまる事が出来、天体観測を4人でするという内容になっている。さぁ、ここで出て来た転校していく男の子がまたキーワードになる。


分析その7:カップリングの『バイバイサンキュー』歌詞はこちら

『天体観測』のシングル盤には『バイバイサンキュー』という楽曲が収録されている。この『バイバイサンキュー』の歌詞が意味深で「入りの悪いラジオ」や「手紙」など、『天体観測』とリンクする部分がある。自分が生まれ育った街を出て行くという内容で、「僕の場所はココなんだ」という部分が『天体観測』でのフミキリがある街を彷彿とさせるが……もし『バイバイサンキュー』の主人公が『天体観測』の『僕』の裏設定だとすると、全てのつじつまが合う。なぜなら『天体観測』の2番とCメロは『僕』がどこかであの日に想いを馳せてるという事になっていて、その『僕』が3番の歌詞で、あの日の痛みによって、フミキリに戻ってくるからだ。歌詞カードも1枚に2つの歌詞が並べてあり、イラストが書いてあって、上の方に月と天体望遠鏡が、下の方に街並みが書かれている。まるで2つの状況が同じ街で起こってると言わんばかりである。


分析その8:藤原基央の発言*2

「人はいつも空を見て生きていると思うんですよ。子供の頃から星に恋こがれて、宇宙の果てのことを想像したり、天体望遠鏡をほしがって星座の名前を覚えてみたりとか。そこでは誰もがいつでも流れ星を探してるわけで。どんな悲しみの中でも喜びの中でも絶対追いかけているものがあると。でも、傷ついた過去や輝いてる過去を引きずるのも、期待に胸はせる未来に思いを託すのも、全然悪いことじゃないと思うんですが、それは全部、いまという要素がなければ成り立たないよと。未来や過去の歌ではなく、僕は”いま“を歌いたいと。いまを大切にしなけりゃどうしようもないと思って生きてるわけで。じゃあ、どうすりゃいいのって言うのは勝手に考えてくれと」

これには驚いたが、ずばりこれが『天体観測』に藤原基央が込めた想いである。『天体観測』で言いたかった事とは、一言で済むような事では無かったのだ。


さて、PVの内容や藤原基央の発言などを照らし合わせて、さらにここまで書いて来た事をよく読んでいただければ、もうよろっとお気づきの方も居ると思う。ネットでよく見かけるラブソングや自分の中の自分説は前回で書いた通り矛盾点があり、やはり違う。「少年たちの成長の歌」という発言を取ると、恐らく幼なじみというか、古い友人の事を想った曲という解釈に間違いはないようなのだが、ただ、古い友人だけが出てくる歌でない事は最後のワンフレーズで証明済み。


最終報告:『天体観測』は、天体観測をしている『僕』と友人。そしてあの日を回想している『僕』と今の『僕』とあの日の友人が出て来る曲である。
まず1番で一緒に天体観測をした「君」は『僕』の友人。だが、その友人とは離ればなれになっていて、最初に天体観測をした時にその友人の手を握れなかった事を痛みに感じている。その痛みをずっと覚えていて、その痛みは消えないけど、それが『僕』を突き動かす衝動にも、支えにもなっている。『僕』は見えてたモノをもう一度探しに行くため、また前と同じ午前二時にフミキリに駆けて行く。その時にほうき星を追いかけてる「君」とは、あの日に予報外れの雨に打たれて泣き出しそうになった「君」であり、実在はしていないのだ。だから「二分後に君が来なくとも 「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてる」と歌っているのである。

ここから何が分かるかというと、この一連の全ての流れが、分析その8で藤原基央が話した事のメタファーであるという事だ。「「イマ」というほうき星」からも分かる通り、ほうき星はハッキリと「イマ」の比喩なのだが、その「イマ」がさらに、現実や今日、今、此処、出発点などのメタファーになっていて、そして、その「イマ」を探す天体観測という行為も「傷ついた過去や輝いてる過去を引きずったり、期待に胸はせる未来への想い」のメタファーという複雑きわまりないもので、さらに痛み、望遠鏡、見えないモノ、見えてるモノ、知らないモノも全て何かしらに置き換えられるから、天体観測というメタファーの中に比喩があり、その比喩自体も今や此処、今日などのメタファーという、もう書いてる側から、これ伝わってるか?と懸念せざるを得ないくらい複雑な歌詞で、そして、僕と君の関係性も明らかにされず、その時間軸もぐちゃぐちゃに入り乱れている。どこかのサイトに「BUMP OF CHICKENの『天体観測』は文学的な匂いがする」と書いてあったが、それは間違いないようだ。

結論:ざっくりと書くが、人間ってのは過去だろうが、未来だろうが、常に何かを探求し続けるべきで、それは見えないモノだったり、見えてるモノだったり、知らないモノだったりするけど、それを探すためにはイマがないと無理だし、何かを探求するためには一人では無理なわけで、そのために誰かを傷つけてしまったりする事もあるよ。つーこと。

――――長くなったが、以上が『天体観測』の完全解説だ。裏付けから、矛盾点はクリアしたが、解釈に頼ってる部分も多く、強引にそうした節も無くはないが、1つだけ言える事はこれだけの歌詞を書くのにどれほどの労力がいるんだろうという事だ。少なくとも10分やそこらで書ける歌詞ではない。これだけ複雑きわまりないものを、分かりやすい形で提示してくるのはシュールな世界よりも難しい事だと思う。BUMP OF CHICKENはこの楽曲以来、メタファーにメタファーを重ねるという事をあまりしなくなってしまったが、BUMP OF CHICKENの楽曲は1回聞いただけじゃ解読出来ないという点でやはり異質なんだろうなぁと思う。そして藤原基央に天才とは言いたくないが、すげぇよ!あんた!

【追記】この記事では形而下の分析だけを行いました。なので、後はみなさんで好きなように『天体観測』を解釈してください。もちろんこれが正解だとも思っていませんが、あういぇ。

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