ハイデガーを知る前に藍坊主を聴きました。

昼飯を喰らって、本屋巡りをした。聖書関係と哲学の本を探しに。最近というか、まぁ、ブログにちょこちょこ書いてた事だが、実在論というものにものすごく興味があって、それを本格的に探ってみようと思ったからだ。

実在論という言葉を知ったのは、藍坊主というバンドの曲を聴いてからだ。というか、それまで哲学が何なのかすら分からなかったオレにとって、藍坊主の楽曲は哲学への入門としては、非常に分かりやすいもんだった。

彼らの楽曲は巷では難解な曲だと言われてる。実際、オレの職場のパートさんでも藍坊主好きだという人が居て、歌詞が好きだと言ってたのだが「あのわけわかんない歌詞の方が好き」と風に評していた。まぁオレだって理解出来てない部分も多かったりするが、ただ、全然歌詞に感銘を受けない知り合いでさえ「『ハローグッバイ』の歌詞はホントにいいですねぇ」というくらいなので、分かる人には分かるという具合だ。

『ハローグッバイ』の中に「木枯らしは木枯らしで、アリはアリで、ネコはネコ、けどぼくは、いまだに、ぼくになれない」というフレーズがあるが、私はこのフレーズに無茶苦茶衝撃を受けた。それこそ『ジムノペディック』はホントに理解出来ないけど、まだ『ハローグッバイ』って哲学の最初の最初みたいなものを分かりやすく提示してる気がする。クラプトンがブルースの基本中の基本をやってるように。

ハローグッバイ/藍坊主

『ハローグッバイ』の歌詞→http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A01900


自分の中で思っている「アリ」とは別に、生物学的な「アリ」が存在していて、その2つはなんとなく理解出来るのだけれど、いわゆる概念の「ぼく」と生物学的な「ぼく」の2つはまったく理解出来なくて、というか、後者の「ぼく」は一体どういう存在なのか?と、「人間」とも言えるし「はてなダイアリーを書いてるヤツ」でもある。「ぼく」ってどういうもんか?ってなんとなくそれぞれの中にあるもんだけど、それはこの世界には存在してるようで、存在してない。名前こそあるけど、名付ける事が「存在」になって、その「存在」が「ぼく」であるなら、確かにぼくは、いまだに「ぼく」になれてない。この『ハローグッバイ』のフレーズがハッキリ理解出来た時。自分の中にあった、「いのち」とか「死」に対する事も同じ事が言えるんだと思った、、、、という話は以前ここ→http://d.hatena.ne.jp/katokitiz/20081028/1225272842でしたので、割愛する。

んで、オレはあったまわりぃし、学も無いに等しい。だから哲学とか知らなかったんで、その事を自分の中で、「生物学的な「アリ」と概念の「アリ」は同じようで違う説」という名前をつけていた。んで、藍坊主のソングライターのhozzyはなんで、そんな事を書けるんだろうと思って、いろいろググってたら、hozzyがブログを書いていたので、そこに何か書かれてるのかなと思って、過去のバックナンバーを読んだら、どうも、hozzyは自身の楽曲に哲学を込めてる事を知った。んで、hozzyの思想に深い影響を与えたのがハイデガーという哲学者らしく、そのおっさんの事を調べたら、実在論という言葉に行き着いて、今度それを調べたら、その「生物学上の「アリ」と概念の「アリ」は同じようで違う説」が観念実在論というんだと知った*1

んで、その実在論ってのは非常におもしろくてですね。こういう事を勝手に考えるのが好きなんで、そのハイデガーっていうおっさんがすっげぇ昔にそんな事を本気で考えてたというのがホントにホントにすっげぇなぁと思いまして、買おうと思って行ったんだけど、最初の本屋には無くて、次にツタヤで発見したんですけど、、、しょっぱなから何書いてあるか理解出来なくてですねーうおー!なので、入門書みたいのを探したら、おもしろい本を見つけまして、それが、『クマのプーさんの哲学』という本。

クマのプーさんの哲学 (河出文庫)

クマのプーさんの哲学 (河出文庫)

パラパラとめくったんですが、『クマのプーさん』の行動や言動が西洋哲学に基づいてるものだというのを研究した本で、そこに実存主義ギリシャ哲学なんかも絡んでて、しかもプーさんの行動からそれを探ってるんで、分かりやすくておもしろいんですよ。ニーチェとかハイデガーとかサルトルとか聞いた事ある人が出て来て、ああ、なるほどと、ハイデガーに行く前にここから始めようかなと買ってきました。ブックオフにて100円です。ハイデガーは図書館に行って探すとしようか。

んで、その後は藍坊主を聞きまくった。『ハローグッバイ』はなんとなく理解出来てるが、何度聞いても『ジムノペディック』は分からん。


ジムノペディック/藍坊主

ジムノペディック』歌詞→http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B15819

そもそもこの曲は「ピカデリー」とか「サティ」とかきっちり存在するモノを登場させてるが、「アルミホイルを噛んだ味がしそうな火曜日」とか「魚が空を羽ばたいてからずいぶんマシなんだけどな」と言った具合に、何がなんだか分からないんで、これからも理解するまでずっと聞き続ける気がする。ただ両方の楽曲を120回以上聞いて分かった事がある。『ハローグッバイ』は「きっちり見える世界の中に自分というあやふやな存在が、ちゃんと存在してるかどうかを確認するため、あなたが必要で、まずあなたが存在するためにはそのきっちりした世界が必要。なので世界に感謝する」と言ってて、『ジムノペディック』は「世界そのものが概念になってて、そのあやふやな世界の中にハッキリ存在してるのが、僕と君で、あやふやな世界でも自分という存在を確認するために、あなたには笑っててほしい」という事を言ってる唄。。。。。。だと、思う。。。

これはホントに推測なのだが、何故こういう事が言えるのかというと、『ハローグッバイ』ではハッキリと『ヨーグルトのカップに赤とんぼが止まってる カラカラ乾いた夕陽の匂い』と世界が存在する描写があり、『ジムノペディック』には『魚が空を羽ばたく』や『アルミホイルの味がする火曜日』など、世界そのものをハッキリと提示するフレーズが無いからだ。

やっぱり何度聴いても分からないので、これからも死ぬまでに聴き続けるんだろうなぁとなんとなく思っている。こういう事を書いてるバンドは他にACIDMANくらいしか思いつかないので、やはりそれぞれの中にある哲学的なもんは学んでおいて損はないと思うのであった。あういぇ。

フォレストーン 通常盤

フォレストーン 通常盤

ハナミドリ

ハナミドリ

*1:ウィキペディアでは“「人間」や「イヌ」や「サル」という名辞にそれぞれ対応する概念的な普遍者『人間』『イヌ』『サル』が、その普遍に属する個物(個々の具体的なサル、イヌ、人間など)とは別に、それ自体として実在するという立場。”と書いてあった。ん?じゃあさ、実在論と観念実在論の違いは何なの?前者は「ネコ」とか「アリ」に使う言葉で、後者は「自分」とか「存在」とか「死」とかにつかうもんなん?まぁ、いいや