天国じゃさ、みんな海の話をするんだ。
ビデオ1で『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』をレンタル。2月7日公開のマイケル・アリアス最新作『ヘブンズ・ドア』の原作であるドイツ映画だ。DVDが無くて、ビデオで探したのだけれど、その時に観たくて、観たくてたまらなかったパム・グリアの『コフィー』もあったので一緒にレンタル。
『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』鑑賞。脳腫瘍で余命数日と医者に宣告された男と悪性の骨肉腫を宣告された男が、病室で出会い、海を見に行くまでを描いたロードムービー。昔観たような観てなかったような感じだったが、ハッキリ映画を観て思い出した。WOWOWで『ラン・ローラ・ラン』や『バンディッツ』と共に放送してて、それを観たのだと思う。そして、今観て、改めて良い映画だという事に気づいた。
私はサム・ペキンパーの『ガルシアの首』という映画が人生で5本の指に入るくらい好きなのだが、『ガルシアの首』の中で主人公のウォーレン・オーツはやたらテキーラを飲んでいる。メキシコの風土は乾いていて、メキシコを舞台にした映画を見れば分かるが、とにかく砂が俟っているのが目立つ。メキシコ人がテキーラを飲むのは、この風土によって口の中に入った砂を流し込むというのがあり、それは映画の中で説明されないのだが、そういうのを抜きで『ガルシアの首』を観ると「ああ、オレも車をかっ飛ばして、テキーラをグビグビ飲みたいなぁ」と思ってしまう。まぁ、それはメキシコだから説得力があり、メキシコの風土だからかっこ良く見えるのだ。
『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』もそうだ。ドイツだから意味があり、ドイツだからベンツもキャデラックも説得力がある。海を見に行くというのもドイツだから、その土地の風土に似合う設定だから説得力がある。だからカーチェイスもリアリティがあるし、ホテルに泊まるのも、ストリップもとにかく説得力があるのだ。そして、その説得力の中で、余命いくばくもない2人を見てると、大金をドーンと使いたくなるし、塩を舐めて、レモンをかじりながらテキーラを飲みたくなるし、葉巻をふかしたくもなる。
映画は低予算だが、やたらテンポの良い編集といい意味での強引さが小気味良く、死ぬまでにやっておきたい事を叶える二人の物悲しさが、不思議な感動とおもしろさを呼ぶ。特に死ぬまでにやりたい事の1番に2人の女とセックスをするというのは非常に共感したりもした。
映画の中において海に行くというのは、死や終わりを意味している場合が多く、地続きで走り続けて海に行ったら、その先には何も無いわけで、その何もない感じが映画の中では物語の終わりを意味したり、死のメタファーである事が多かったりもする。それが証拠に『大人は判ってくれない』や『気狂いピエロ』『東京物語』『冒険者たち』『狂った果実』『さらば青春の光』『ショーシャンクの空に』『HANA-BI』『PICNIC』などは全て海で物語が終わり、そこでは死が訪れたりする。ご多分に漏れず『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』もその伝統をきっちりと守っている。
『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』は海に行くという目的が映画のラストと死を暗示しているために、意味のある映画になっているところがすごい。普通に日々を過ごしていて、海に行く事を思いつき、海に行くというストーリーなら感動はしないし、何よりも映画にならないと思う。もちろんカタルシスも生まれないが、海に行くという目的が映画的に元々死を暗示しているので、それを余命いくばくもない主人公とリンクさせた事が『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』の秀逸なアイデアだと思う。じゃなかったら、ただ海に行くだけの映画で感動は生まれないはずだ!
さて、『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』は強引な要素もあるし、キャラクターの行動に意味不明なところや作り込みが甘い部分もあるが、それも含めて非常に愛すべき傑作だと思う。これを長瀬と福田麻由子がどのように表現するのか楽しみだが、そこはマイケル・アリアスの手腕に期待したいところだ。でも、みんなクソ映画だって言ってんだよなぁ。。あういぇ。