コミックを数冊読んで『ダークナイト』は傑作だと確信した。
2008年に公開された『ダークナイト』で目立った感想が「単なるアメコミの枠を越えた良質なクライムムービー」というものである。これは、日本人の中でアメリカのヒーローコミックに対するなんらかの概念があって、それは「くだらない」とかいうたぐいのものなのだろうが、この文面には「アメコミヒーローもののくせにこんなに骨太な犯罪劇が出来てすごいなぁ」という意味合いが含まれている気がしてならない*1。
ところが当のクリストファー・ノーランは『ダークナイト』制作時にこんな事をインタビューで言っている。
「バットマンの映画を作る人間は必ず訊かれた事があるはずだ「どのコミックを参考にしたんですか?」ってね、答えは“全部”さ、ありとあらゆる作品に目を通すに越した事はない。でも私に監督就任を決心させたのはただ一つ『ロング・ハロウィーン』だけだ。一級のクライムストーリーだよ。ジェフ・ローブは、バットマンユニバースならではの突飛な要素を基に、極めてリアルな世界を創り上げた。このリアルさはきっと読者を驚かせたと思う。『ロング・ハロウィーン』は、もはやコミックブック以上の存在だ。犯罪にまつわる叙述詩なんだよ。」
『ロング・ハロウィーン』はフランク・ミラーが書いた『イヤーワン』の続編的な作品。ちなみに『バットマン・ビギンズ』の基になったのは『イヤーワン』である。『イヤーワン』はバットマンの誕生を描いた作品だが、非常に暗く、重い犯罪劇で、汚職にまみれた警察内部に立ち向かうゴードンの話だ。『イヤーワン』はバットマンのコミックの中でも飛び抜けてリアルなハードボイルドだが、『ロング・ハロウィーン』はその世界をベースにミステリーに仕上げている。
『ロング・ハロウィーン』はゴッサムを牛耳るマフィアのファミリーが次々と記念日に殺されて行くという話だ。記念日に殺されるので、その事件の犯人はホリデイと呼ばれている。このコミックのおもしろいところは、街を牛耳るマフィアのファミリーが殺されているので、悪を根絶やしにしたいと考えてるバットマン、ゴードン、デントにも動機があるという事だ。誰が犯人か予測がつかないストーリーと、各キャラクターの悪人に対する想いが交錯する傑作である。
ところが、『ダークナイト』はこの『ロング・ハロウィーン』と決定的に違う部分がある、それはジョーカーの存在だ。善人面した人間のモラルは嘘っぱちだと、ジョーカーは悪の存在を身にまとい、倫理観や正義という意味のないものをジョークとして笑い飛ばしに来る。それは悪を悪とせずに敵と認識してところ構わず戦争をしかけたアメリカに対する皮肉にも感じられる。
この動機のない犯罪によって倫理観や正義こそ偽善であると主張するジョーカーだが、実はこのキャラクターもコミックの『キリング・ジョーク』を彷彿とさせる。『キリング・ジョーク』のジョーカーは映画のように大多数の人間を相手にせず、正義の象徴として、ゴードンを陥れる。『ダークナイト』ではデントの恋人(バットマンにとっての元カノ)を爆死させ、ダークサイドに落とし込むが、『キリング・ジョーク』ではゴードンの娘を撃ち、犯して、写真を撮り、その写真をゴードンに見せつけるという映画以上の事をやってのける。
「アメコミの枠を越えた」と評判の『ダークナイト』だが、これらを読むと実はアメコミの枠を越えるどころか、しっかりとコミックを世界を忠実に守った作品である事がよく分かる。前作の『バットマン・ビギンズ』のゴードンは『イヤーワン』にそっくりだし、バットマンの相棒がロビンじゃなくて、デントとゴードンだったりとか、その三人が警察の屋上で会話するとか、実は死んでたはずの○○が生きてたとか、積み上げられた札束を燃やすとか、殺人現場にジョーカーのカードがばらまかれてたりとか、バットマンもジョーカーも実は同じ人種だとか、コミックに登場するアイテムをちゃんと映画でふんだんに取り入れている。逆に言えばリアル指向だったコミック版で邪魔だと思われていたアルフレッドをフィーチャーしたり、バットポッドを登場させたり、空を飛ぶシーンをたくさん使ったりと、映画の方が荒唐無稽の要素を足してるようにも思える。
つまり『ダークナイト』は血なまぐさく倫理的に危険な要素に踏み込んでいるコミック版を分かりやすく、一般的にも見れるような娯楽として再構築した作品なのだ。確かに血は出ないし、人が死ぬところは映らないが、充分ジョーカーは凶悪だし、指定が何もかからない映画にしては、アダルトでダークな犯罪劇になっていると思う。
何よりも『キリング・ジョーク』で絶望を受け止められない弱い人間として描いたジョーカーを、人間性が見えない悪魔の手先のように描きなおしたのはクリストファー・ノーランの抜群のアイデアだ。口を常にフガフガさせて、話し方から歩き方まで狂ったようにしか見えないヒース・レジャーの演技もホントにホントに素晴らしい。
今までのバットマン映画で最高傑作と言われていた『バットマン・リターンズ』は『シザーハンズ』と同じような内容で、バットマンの名を借りたティム・バートンの映画だった。実はアメコミの枠を越えてたのは『バットマン・リターンズ』の方だったというのがよく分かる。『ダークナイト』はコミックの世界を忠実に守り、『バットマン・リターンズ』と違う方法でバットマン=闇の騎士である事を再認識させた傑作。ここまで来たら、ザック・スナイダーは『300』や『ウォッチメン』と同じ方法論でコミック版の最高傑作『ダークナイト・リターンズ』を撮るしかないなぁ。