偉大なるアンバーソン家の人々

最近、ますます酒がうまくて、酒を飲みながらDVDを観るのにハマってしまっている。体たらくですいません。映画に狂ってた時期に観た映画を今更観て行こうと、昨日は久しく『偉大なるアンバーソン家の人々』を観た。

偉大なるアンバーソン家の人々 [DVD]

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オーソン・ウェルズと言えば、映画史上のベスト作と言われている『市民ケーン』を監督した事で有名だ。映画ファンだったら誰もが知ってるし、観た事は無くても、名前くらいは聞いた事あるだろう。ウェルズは『市民ケーン』を若干25歳で監督し、その力量を見せつけた。41年の作品だが、今見てもまったく見劣りしない大傑作だ。

市民ケーン』は映像表現がとにかく当時の映画の中ではずば抜けていた。特に雷光で画面を白くした瞬間にガラスをカメラが突き抜けるというのは当時にはまったく無かったもので、このカメラを『虚栄のかがり火』でデ・パルマがそのまんまやってのけ、さらにウェルズ自身も出演した『第三の男』ではキャロル・リードが二階の窓の草木を貫通して外の舗道を俯瞰映像で撮るというオマージュをやっている。フェイクドキュメンタリーの先駆け的な脚本、『羅生門』のように様々な人の証言で人物像を浮き彫りにするという展開も新しかった。『市民ケーン』は確かに映画史上の金字塔であってもおかしくない作品なのである。

だが、この『市民ケーン』は早過ぎた。映画とは当時一期一会で、ビデオも無い時代に一回観ただけでは理解出来ないような作りになっていた。当然観客が付いて行ける訳も無く、さらにモデルとなった当時の新聞王であるウィリアム・ランドルフ・ハーストにボロカスにけなされた事で、興行的には惨敗する。

そんな『市民ケーン』を得て、ウェルズは監督第二作である『偉大なるアンバーソン家の人々』の製作に挑む。名家アンバーソンの一族が自動車産業という時代の流れに飲まれ、没落していく姿を描いた大河ドラマだ。後年ウェルズは自身の言葉で「この作品はそうとう自信があった」と語ってる、つまりウェルズにとっての代表作になるはずだった。

ところが『偉大なるアンバーソン家の人々』は『市民ケーン』の評価は得られなかった。『市民ケーン』や『黒い罠』は有名だが、『偉大なるアンバーソン家の人々』をウェルズのベストに挙げる人はほとんど居ないのである。何故そんな事になったのか?

脚本を読むと分かるが、実は『偉大なるアンバーソン家の人々』は非常に暗い、悲しい話で、特に没落していく後半がやりきれないものになっていた。『市民ケーン』が当たらなかったせいで、この物語に難色を示した製作者が旅行中の監督に内緒で、勝手に編集し、勝手に別なシーンを撮影し、さらにはラストまで一応ハッピーな物に変えられてしまったのである。

元々ウェルズはこの作品を131分に編集したが、これを88分にされた。これを編集したのが『サウンド・オブ・ミュージック』のロバート・ワイズだと言われている。40分削られ、さらにはラストまで変えられたとなっては監督が意図した物とは別な物になってしまう。もちろんウェルズは激怒したが、この作品を撮るにあたって彼はノーギャラでさらに最終編集権をスタジオ譲るという契約をしてしまったので、発言権などあるわけもなく、『市民ケーン』をヒットさせる事が出来なかった時点で彼の居場所はハリウッドにはなかった。

さて、この『偉大なるアンバーソン家の人々』。ここまでズタズタにされて、さらにラストも変えられているが、傑作だ。とてつもない作品である。底知れないパワーと野心がフィルムに息づいてるようで、何度観ても初見の感動がある。『市民ケーン』で見せた、ケレン味溢れるカメラはどこへやら、ウェルズは監督第2作にして、円熟味の境地にまで達してしまったくらい映像が洗練されている。光と影をここまでうまく使えるのかというくらいの完成された映像美、見事な長回し、ローアングルを多用したユニークな構図、特に建物を下から上に登って行くカメラは当時誰もやってなかったんじゃないか?というくらい独創的で、デ・パルマのそれよりも鳥肌が立つ。確かにダイジェストのように展開が早いが、それがプラスに働き、これだけ芸術性が高いのに、肩の力を抜いて見る事が出来るくらいスピード感もたっぷりだ。

偉大なるアンバーソン家の人々』のオリジナル版はもう観れない。編集されたフィルムは紛失していて、未だに探しているという話も聞くが、この失われた43分はどの映画の43分よりも重要だ。もうオリジナル版は観れないが、この不完全な物を観ても傑作なのだからウェルズの才能は計り知れない。もし完全なフィルムが発見されたら、『偉大なるアンバーソン家の人々』は『市民ケーン』を越えると今でも確信している。

参考資料↓

オーソン・ウェルズ―その半生を語る

オーソン・ウェルズ―その半生を語る