『しんぼる』は『ゼルダの伝説』を映像化した作品。


12日の19時より『しんぼる』鑑賞。

松本人志という芸人を語る上で外せないのが『頭頭(とうず)』という作品だ。50分のビデオ作品だが、老人介護に悩む家庭を現代の小津のような厳しい視点で描き切って、最後の数秒で笑いにする。この長い前フリに対するオチ、そして裏切りというのは『一人ごっつ』や『松ごっつ』、『松本見聞録』にも出て来るので、『頭頭』が原点にあるのは間違いない。『すべらない話』がメジャーな笑いだとすると、“絶妙な間とタイミング”や“発見!”、“親父関係あれへんがな!まで後10分”なんかはマイナーな笑いになる。そして後者こそ、松本人志が追い求める笑いだと思う。

映画としてはかなりいびつとしか言いようがなかった『大日本人』だが、監督第一作でちゃんと松本人志が撮る意味のある作品になっていたと思う。松本人志という芸人が、過密スケジュールの中で、映画と撮ると決めて、撮影方法を編み出し、メッセージもしっかり入れて、なおかつ笑いもやれるだけやって、最後の最後で裏切って、長い前フリの後に盛大に映画をぶち壊す事に成功した。この条件で、これだけやったのだから、本人は映画の出来に大満足だったはずだ。

ところがである。『大日本人』はかなり酷評された。特に意識していなかったカンヌ映画祭への出品。元々、マイナーな松本人志の「間」で編集された作品にカンヌの観客は付いて行けなかった。カンヌでは観客がつまらないと判断したら、途中で席を立つのは当たり前。松本人志が執拗に用意した「間」に付いて行けず、本人が居る側から観客が次から次へと退席していく。「海外用に作ってないし!」とある程度の構えもあっただろうが、松本人志がこれにショックを受けたのは想像に難しくない。

『しんぼる』はその経験を活かし、海外で観られる事を意識して作られている。映像も映画にしか出来ない、視覚による笑いをメインにしているし、日本語のパートは、ほとんどセリフが無く、英語も多様されている。扱ってるテーマも日本人より外国人の方が受け入れやすいものにしていて、「メキシコの覆面レスラー」の徹底したリアリズムも含め、『大日本人』とはまったく違うテイストながら、コアな松本人志の笑いの要素が満載で「やっぱり松本人志にしか撮れない映画だなぁ」と思わせる。そもそもマッシュルームカットで変なパジャマを来た男が真っ白い部屋でのたうち回るという絵からしておもしろい。

いろんなところで『2001年宇宙の旅』っぽいとか、リンチやフェリー二っぽいと言われるかもしれないが、ぼくが単純に思ったのはゼルダの伝説だ。

ネタバレになるので、内容は書かないが、ずばり、『しんぼる』は『ゼルダの伝説』のカタルシスを、なるべくリアルに描いた作品だと思う。激ムズのアクションゲームをプレイしていると言えばいいだろうか、何度も何度も同じところでやられたり、落ちたりしてイライラしながらも、何度もプレイする事で、身体で敵が出るタイミングやコースを覚えて、少しずつ進んで行く――――あの感じが見事に映像化されている。それがだんだんスケールアップしていって、最終的に『2001年宇宙の旅』になるという――――(笑)

海外を意識して、映像で笑わせるように工夫したようだが、それでも間や前フリの長さは、深夜でひっそりと放送されているような松本人志のコアな笑いだ。やっぱり映画でやる以上は、映画のリズムや映画のテンポ感にしてほしかったなぁというのは個人的に思った。

ただ、『大日本人』に比べると、格段に映画になっている。90分という事もあってか、無駄な「間」はあっても、無駄なシーンは一つも無かったように思う。ぼくは『大日本人』肯定派だけど、そんなぼくでも『しんぼる』の方が作品としては断然上だと思った。笑いの神とか、カリスマとか呼ばれて、ちょっと神格化されてる“松本人志”が、「しょせん神だなんだ言っても、おかっぱでパジャマ来てて、バカやってるようなもんだよ」と自分自身でマヌケな姿をさらして神を演じてるのもよかったんじゃないだろうか。

てなわけで、今回もいろんなところから批判はされるだろうが、『アマルフィ』とか『MW』とかに比べれば、『しんぼる』の方がオリジナリティがあって、映画として観てて面白い。プロデューサーから、こうしろああしろと言われない分、失敗しようが成功しようが、とにかく松本人志にしか作れない物を好き勝手作って欲しいなぁと思う今日この頃であった。

ただ、『しんぼる』初日だけど、オレが観た時は客5人くらいしか居なかったよ――――きっと、これは『大日本人』に対する評価だよね。ミスチルも「新作の売り上げってのは、前のアルバムの評価だと思ってるんで」って言ってるし。あういぇ。