そもそも監督はどのように『ソラニン』を解釈したのか?

ソラニン』鑑賞。

絵はやわらかいのにエッジの効いた内容だった原作を読んだ時、これを宮崎あおいで映像化するって大丈夫なのか?と思った。街並を詳細に描き込むことで窮屈な日常を表現しており、モノローグを多用したり、匂いのするラブシーンなんかもマンガだから全てが成立するんであって、映像にしたら、上っ面だけをすくい取るだけになってしまうんじゃないかという懸念があった。

実際映画を観ると、映像はウエルメイドにまとめられているが、各キャラクターのセリフ回しに若干のドラマ臭さみたいなものがあって、モノローグまでそのまま映画で多用していることから、マンガよりも映画の方が“マンガっぽいなぁ”と思ってしまう不思議な作品になってた。それが良いか悪いかは別の話。

役者はホントに良い雰囲気を醸し出してるので、その「セリフを言ってる感」を消すというのは監督の演技指導や演出力不足ということになるんだろうが、それを逆手に取ったのが『カイジ』なわけで、『ソラニン』では、もうちょっと自然と喋ってる雰囲気を出さなければならない。何故ならば、『ソラニン』は感情を爆発させる仰々しいシーンが一つもなく、日常感みたいなものがキモだからである。

それでも、良い所もすごくあって、クローズアップを多用しないとか、ミドルショットの長回しでラブシーンを撮るなど、分かってらっしゃるところもすごくあった。ただ、監督第一作ということを考えると『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の監督はその辺とても繊細に演出してたんだなぁと思った。

ただ、『ソラニン』にはとても許しがたいシーンがある。それは例の宮崎あおい演じるライブシーンだ。

アジカンが書き下ろした渾身の楽曲『ソラニン』を宮崎あおいに歌わせるという、とてつもない演出をぶちかましたわけだが、ここで、何を思ったか、ライブの最中に、種田が音楽を始めたきっかけのシーンをオーバーラップさせるのである。

これは絶対にやっちゃダメで、ここでものすごくガッカリしてしまった。残念だ。残念でならない。

何故ダメかというのには理由がある。種田は音楽で世界を変えようと本気で思ってる男で、その彼が最期に遺したのが『ソラニン』という楽曲なのだ。

ならば、種田が生きた証として、宮粼あおいに歌わせるのなら、音楽の力を信じた種田の気持ちを汲み取って、音楽のシーンだけで突っ走らないと、「けっきょく、音楽の力だけじゃだめなのかい、あんたらはそこに別な心情の映像をかぶせないとシーンが持たないと考えたのかい!」と思ってしまう。

このシーンは“彼らには世界を変えられないかもしれないけど、音楽が持つ力だけは無限大だ”というメッセージが無ければならないのに、その芯が余計な演出によって、台なしになっているのだ。

この場合、楽曲が弱ければ、やってもいい演出だと思うが、アジカンの『ソラニン』がとてつもない名曲なだけに、すごく鼻に付いてしまう。そもそもこの時点で監督は『ソラニン』をどのように解釈していたのだろうか?やっぱり音楽だけじゃダメだよなんて冷めた視点があったのかなぁ。

ここまで書いておきながら、グッと来たシーンもあった。宮崎あおいがアンプのセッティングをして、ムスタングを初めて鳴らすところ。ここはマンガでは表現出来ない映画ならではのシーンだと思う。ギターが鳴るだけで泣けるなんて、そんなことなかなか映画にはない。

こういう演出が出来るのだから、監督にはもっともっと頑張ってほしいものだ。文句は多々あったが、それでも原作が持つパワーみたいなものは完璧に移せてると思う。実際、後半は長回しを多用した役者の抑えた演技に引っ張られて、泣きっぱなしだったし。満足したか/してないかで言えば、ぼくは満足した。

というわけで、『ソラニン』はそういう細かいところがまったく気にならない人にはとてもおすすめ。そもそも死で立ち止まらない映画というのはやはり素晴らしいですな!あういぇ。

ASIAN KUNG-FU GENERATION/ソラニン
焦燥感溢れる楽曲はやはり素晴らしい。いっつもパキっとしたメロなのに、詞先行だったこともあって、Aメロはとても不安定。そこが焦燥感に繋がる部分なんじゃないかなぁと。

ソラニン

ソラニン