一時間半も並んで食べるドーナツはホントにうまいのか?『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』をレンタルDVDで鑑賞。

なんでもかんでも録画しないと気がすまない「普通の男」ティエリーのドキュメンタリー。

彼が妙な人脈で伝説のアーティスト、バンクシーに出会う。壁にスプレーでペイントする「ストリート・アート」で有名になったバンクシーだったが、いわゆる「落書き」であるため、その作品は数日で消されてしまったり撤去されてしまったりしていた。バンクシーは「そろそろ自分の作品を記録に残してもいいかもしれない」と、ティエリーを信用のおける人物として撮影係に任命する。それと平行して自身の作品が高値で取引されるようになったバンクシーは思わず自分の心情をティエリーに吐露してしまう「作品がいくらで売れるかは問題ではない、アートの真実を語る映像を今こそ世に出す時だ」この言葉に触発されたティエリーは今まで録りためたビデオテープを編集し、作品にしてバンクシーに見せた。本来はストリート・アートのすべてが詰まってる映像集で貴重なものになると思われたのだが、この作品が言葉を失うほど悲惨な出来だったため、これ以上監督をさせるわけにはいかないと遠回しに「もうカメラを置いてアートをやれ」と助言。早速言葉通りティエリーはカメラを置き、アートを制作しはじめるのだが、これが思わぬ事態を引き起こしてしまう………

イントロダクションとして、バンクシー自身が「これはぼくのドキュメンタリーを撮ろうとした男のドキュメンタリーだ」と言っているのだが、ハッキリ言って中盤くらいから誰の視点で進んでいるのか分からないし、監督はバンクシー名義になっているものの、何をどこまで仕掛けたのか曖昧で、持ってた映像やらティエリーとの関係性はどうなってるのか?まで明かされず、ドキュメンタリーとしてどうなの?と思う部分もなくはないが、映画としてはとてつもなくおもしろい。

ストリート・アートの歴史と平行して、普通の男がどのようにバンクシーと交流を持ったか?を描きつつ、中盤からはバンクシーの言葉を真に受けてしまった勘違い野郎の暴走に激しく笑う。最初は普遍的なナレーションで進んでいくのだが、次第にあきれ果てたような投げやりなものになっていき、バンクシーの言葉もだんだんと悪意に満ちてくるあたり、ドキュメンタリーの体裁を取りながらも、ブラックなジョークとして仕上げている。それはまるでキューブリックやウェルズの作品、アラン・ムーアのコミックの読後感にも似ている。

ところがこの作品はそれこそバンクシーのストリート・アートのように、誰もが簡単に見れるような敷居の低さがあり、仰々しい技術は一切なく、素人が撮影した映像でまとめあげられた90分の軽いもので、自身のアートの精神性と呼応するような構造も心憎い。

観た人によって感想はかなり違うだろうし、どこまでをどう受け取るかによって、評価は分かれるだろうが、ぼく自身は今のアート界の現状と、それに踊らされる人々に警鐘を鳴らしているのかなと思った。

そもそもアート界の価値基準は明確じゃないし、どうやって作ったかとか、そのメイキング映像を見ないと技術的なことなんてちっとも分からない。フィギュアスケートM-1の漫才のように例え自分が良いと思っても審査員先生方の得点を見ると、ああ、そっちが正しいかもな……と自分の考え方まであっさり傾いてしまう。こういう権威主義的なものに人間というのは本当に弱い。そのものが本当に良いのか?なんてのは二の次で、なんとなく誰かが良いと言っているから、なんとなく偉い評論家先生がダメと言っているから……という尻馬につねに乗ってしまう節があるのだ。そしてそれは大勢の人間を巻き込み、その尻馬に乗っかった人々を見て「あ、たくさんの人が良いって言ってるから、あれは良いものに違いない」という連鎖を生み、最終的に物事の本質はどこかへと消えて行ってしまう――――――――

もし世界的に人気/有名で権威とカリスマ性があるグルメ評論家がすき屋の牛丼を言葉巧みに褒めたらきっと行列が出来るだろう。すき屋の味を知ってる人はすき屋は行列を作って食べるような食べ物じゃないことは知っているが、それでもそういう言葉を聞くと改めて食べたくなり、つい並んでしまったりしないだろうか?タイトルの『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』にはそういう意味が含まれているのではないかと。

というわけで、少しばかり長くなってしまったが、今レンタルしている中だったらダントツでおすすめ。マンガのような出来事が現実になっていく瞬間はホントになんともいえないカタルシスが得られます。あういぇ。

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ [DVD]

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