タランティーノ以降、ついに飛び出した才能『さらば雑司ヶ谷』

超今更ながら、樋口毅宏『さらば雑司ヶ谷』を読んだ。

さらば雑司ヶ谷

さらば雑司ヶ谷

いやはや、とてつもないものを読んだという気分にさせられる。それくらいすさまじい小説であった。

どこで読んだのかは、まったく覚えてないんだけど、かつて、タランティーノは物語に関係ないおしゃべりをいれることに関してこんなことを言っていた(気がする…)。

「別に殺し屋だって、殺しの話ばかりしてるわけじゃない。昨日見たテレビの話だってしているはずなんだ」

この考え方は90年代のポップカルチャーに革命をもたらした。実際『レザボア・ドッグス』の冒頭のようなどうでもいい論争は、居酒屋なんかに行ったときによくやる。特にこんなブログをやっていると、このブログに書いてあるようなことをそのまんま酒の席で論説ぶることもある。その仲間うちで話してる感じがよく出ていてリアルでかっこよかった。

だが、そういった映画に関係ない「おしゃべり」は作った本人の意思とは関係なく、悪しき風潮を生み出した。特に日本のそれはヒドいもので「なんとなく普段しゃべってる感じでぺちゃくちゃと話すシーンを入れればかっこいいだろ?」と上っ面だけすくったような、観るだけで恥ずかしくなるようなものばかり。しいていえばクドカンがその中でもマシな方だとは思うが、某石井なにがしさんの初監督作とか、ヒドくてヒドくて*1……

そういった、風潮のなかで、映画やマンガなどもひっくるめて、やっと『レザボア』以降、まともに感じられるフォロワーが現れたという感じだ。それくらい『さらば雑司ヶ谷』のセリフ回しは粋であり、クールであり、ドヤ顔感がなかった。まずはそこを評価したい。

それが顕著になるのは中盤のオザケン話。

「人類史上最高の音楽家は誰か?」というどうでもいい議論に華を咲かせるなか、あるキャラクターが「小沢健二」だと言い放つのだが、その理由と説明のしかたが、まぁホントにすごくて、ここだけでも読む価値があるくらいおもしろい。もちろんこれは本筋には関係ないのだが、個人的には『レザボア』の「マドンナ論争」を越えてると思った。

実はおしゃべりだけでなく、小説において、物語に関係ないことを延々書くというのはよくあることだ。

読書量が少ないため、例に出す本を間違ってるかもしれないが、例えば林芙美子の『浮雲』の植物の話なんかは、何かの比喩であったとしても、あきらかに長く、読んでて苦痛に感じるだけだった。成瀬巳喜男が映画化した際、ここをまるまるカットしたのは正しい選択だったように思う。『下妻物語』のロココ話も映像にすればまだ楽しく見れるものの*2、あれを文章で延々やられると辟易するだけだ。

タランティーノ以降、モロに影響を受けているという意味ではニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』がそれにあたると思うが、これは引用が多すぎて、逆にドヤ顔を感じるものになってしまった。ジョン・ランチェスターに関してはいわずもがなである……

確かに『さらば雑司ヶ谷』のオザケン話は物語に直接関係ないが、これをおもしろいと思わせる時点で、この小説は勝ちだ。今、例に出したようにそれをうまく読ませてくれる小説というのは稀であり、しかもタランティーノと一緒で作者は上から目線で知識をひけらかしてるわけではないというのがセリフの端々から伝わってくる。

引用だらけの文章ということで『27歳ガン漂流』を彷彿とさせるが、あのタッチで『不夜城』を書いたというのがこの小説を形容するのに当てはまるかと思いきや、それも違う。

まぁ、この小説。語り口がころころと変わるのである。

時に純文学のような語り口になり、時に想像するのもイヤになるほどの変態描写があり、時に評論家のような文体が出てきたり、時に落語のように流暢な語りが飛び出したり、時にハードボイルドになり、時にハリウッド大作のようなスケールになったり……とにかくつかみ所がない。逆にいえば、それだけ一冊のなかに凝縮されているともいえる。主人公は5年間、中国でやばい仕事に手を染めているが、そこを思い出すという形で延々語られるというのは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を彷彿とさせた。あ、あれも物語に関係ない話が延々出てくる小説であった(しかもバイオレンスもそうとうすごい)。

というわけで、まさかタランティーノ以降、モロに影響された作品でそれに肩を並べるような小説に出会うとは思わなかった。読む人を選ぶかもしれないが、おすすめ。無駄に長い個所が多いわりに、作品自体が長くないのも良い。いやぁ、好きですね!この本!

*1:ただしキムタクが出た「世にも奇妙な物語」のエピソードは傑作だと思う

*2:監督の手腕もあってか