小説なのに「書かない」ということ

馳星周の『夜光虫』と『漂流街』を読んだ。

夜光虫 (角川文庫)

夜光虫 (角川文庫)

漂流街 (徳間文庫)

漂流街 (徳間文庫)

馳星周は『不夜城』を読んでいて、これはまあ、いくら「超」をつけても、その評価を表すことができないくらいの超ウルトラ大大傑作なわけなんだけど、その一方で、この世界観に若干ついていけないというか、いわゆる、新宿を舞台にした多国籍感みたいなものがじぶんにはあわないかなと思ったりもして、続編はスルーしていた。

さらに映画と一緒で、長い小説/分厚い本を苦手としていることもあり、ハードカバーで文が二段になってて、500ページもあるような小説はそもそも手に取らないので*1不夜城』のあとの代表作と言われてる作品はことごとくスルーしていたのだった。

ようやくここにきて読書熱が高まり、遅ればせながら手に取ったのだが、まぁこれがおもしれえのなんのって、ホントにビックリした。個人的にこの二作は『不夜城』よりも好きだと素直に感じた。それくらい興奮したし、読むことを止められなかった。文庫にして800ページ近い大作ながら『夜光虫』は2日で読んだし『漂流街』も、こないだの総選挙とかがなければ2日くらいで読めたかもしれない。

ものすごく分厚い本であるにもかかわらず、なんでそんなに早く読めたかというと、この二作は小説でありながら、あまり「書かれてない」からである。

馳星周のこの二作はびっくりするほど描写が淡白だ。そこにあるものですら細かい説明をしない。葉巻なら葉巻として出てくるし、ビールならビールとして出てくる。

特に『夜光虫』は台湾を舞台にした野球賭博八百長の話であるにも関わらず、そこの説明にページをほとんど割いてない。これは構成の妙なのかもしれないが、それだけでなく難しい言葉や単語が一切出て来ないということもあって、圧倒的に読みやすかった。こんなに読みやすかったのかと関心したくらいだ。それでいて、文庫で800ページもあるということは、いかに物語の密度が濃いかということになる。

バイオレンスや性描写が激しいというのは馳星周を表す常套句であるが、じゃあそこを執拗に描いているのかというとそうではない。実際この二作を読むと、それがお題目であることがよくわかる。確かにバイオレンスも性描写も回数は多いが、そこを細かく描こうとはしない。映画に例えるなら、ベッドシーンが始まったと思ったら、カメラがそれて、すでにことが終わった状態になっているみたいなもんだ。

実は最近立て続けに読んでいた深町秋生もこのタイプの作家だ。車ならヴァンのひとことですましたり、食べてるものも「どこそこの中華屋のすんだスープが喉に染み渡るようなタンメン」というような書き方は絶対にしない。車でかかる音楽も「ファンクミュージック」と表記され、それがジャミロクワイなのかスライなのか、それともファンカデリックなのかは分からない。これが村上春樹なら、どこそこのアルバムに収録されてる、なにがしという曲がかかったと書くはずだが、そういった細かい描写は一切ない。深町秋生馳星周は似てるという風に言われたりもするが、あまり書かれてないという意味においては、たしかにこの二人の作品は似ているのかもしれない。実際圧倒的に読みやすいが、執拗に描かれないぶん、物語の起承転結を二回してるんじゃないかというくらいに濃い。

それとは逆で執拗にこの手のものを書き込みたがる作家もいる。それはそれでリアリティがあり、情景が浮かびやすく、人となりまで分かるから、またおもしろい。

というのも、また妙なタイミングで今、村上龍の『オーディション』を読んだからで、この小説はとにかく描写が細かい。ビールならビールで「冷蔵庫にビールが入っていた。○○はその中からベルギービールを取り出した」というような書き方をするし、観てる映画、観てるテレビの内容、飲んでる酒の種類と飲み方、料理、料理の作り方からまぁ細かく出てくる出てくる。

あまりの逆の発想というか、やり方に面食らうほどだったのだが、小説というのは不思議なもので、書かなければ書かないでおもしろいし、書いたら書いたで、それはそれでおもしろかったりするのだ。

ただ、ぼく自身はあまり書かれてない小説のほうを好むけどね。

ダウン・バイ・ロー (講談社文庫)

ダウン・バイ・ロー (講談社文庫)

アウトバーン 組織犯罪対策課 八神瑛子 (幻冬舎文庫)

アウトバーン 組織犯罪対策課 八神瑛子 (幻冬舎文庫)

*1:エルロイ作品をなかなか再読しないのもこれが理由だ。もう内容を忘れつつあるので、好きと公言できない感じに……