ファンの気持ちを踏みにじる愚作/映画『ストロベリーナイト』

劇場版の『ストロベリーナイト』鑑賞。原作未読。ドラマはパイロット版+本編+映画に先駆けた2時間スペシャルを見ているというスタンスで「ストロベリーミッドナイト」は観ていない。

結果から言うと愚作。これは観る人が『ストロベリーナイト』に何を求めているか?によって大きく変わると思われる。それほどの問題作でもあり、ファンに「こういうのもどうでしょうか?いろいろやりつくしたので……」とお伺いをたてる試金石でもある。もっと言えば、おもてたんとちがう!というか「らしくない」というか……つまりここから書くことはぼくがこの作品に求めることにたいしての不満であり、なんの分析も解説もしていないのでひとつよしなに。


ここからネタバレ全開でいかせていただきます。菊田ぁぁ!


まず気に喰わないのが、演出方法の数々だ。

映画版はタイトルの出し方からも分かるように『ストロベリーナイト』シリーズのワンエピソードとして扱われている。『ストロベリーナイト』と表記されているが、正確にはこの作品のタイトルは『インビジブルレイン』であり、原作もそうなっている。

であれば、ドラマ版の演出を映画ならではのスケール(金のかけ方もふくめ)でスタイリッシュに決め込むべきなのに、映画であることを意識しすぎたのか、そこがないがしろにされている。もちろん死体の顔面にナイフで傷を入れるであるとか、ドラマでは出来ないことをやってまっせ感があるんだけど、それとは別に血なまぐさいシーンの表現をやわらげるために選んだ手法――――押井守のペラペラ実写アニメ調の表現が一切なくなっているのは残念極まりない。

あの手法はパイロット版の「人が死んでしまったらただの肉の塊になる」という意味と「この殺人者は人を殺すことをなんとも思ってない」という感情を映像で見事に表現し、しかもそれが過激な描写をやわらげることにもつながるナイスアイデアで『ストロベリーナイト』の名物でもあった。歌舞伎でいうならば「いよっ!待ってました!」である。

確かに犯人の感情とは直結しないものの、映画になったとたんそういう決まり事をあっさりとやめてしまうのもいかがなものかと思う。映画評論家としても活躍している宇多丸師匠がよく「型があるから型破りなんだ」というが、ホントにドラマというフォーマットの場合、規制という「型」が存在し、それをうまいこと破ったのがドラマ版の『ストロベリーナイト』なのだ。それが映画になったことで「型」が消え、型破り感が一切なくなったのはなんとも皮肉な話だ。

そもそもこの作品はリアリティが欠如した良い意味でスタイリッシュな刑事ドラマなのである。刑事ドラマといえば汗をかいて、顔に脂をにじませながら足でかせいだ情報を元に、はきだめの犬のように這いずり回って仕事をする様を映すべきで(その点黒澤明の『野良犬』や『躍る大捜査線』の真下事件のくだりはよくわかっている)、それに比べると『ストロベリーナイト』は姫川班と呼ばれるチームにはイケメンしかいないわ、上司もやたらとキレイなスーツ着てるわで、どこぞのファッションショーかよと言いたくなるくらいである(そこがこの作品の魅力でもあり、時代は変わったんだなーと思わせる部分でもある)。

そこを捨ててリアリティラインをグット上げたのかと言われるとそんなことはなく、変わりにやっているのは『セブン』もどきの全編雨を降らすという安直なスケールアップ感。誰もそんなことは望んでいないというのに……(しかも『セブン』はブラピのスケジュールにあわせ、苦肉の作でロケ地を変更し、雨を降らせることで予算を抑えたのに、わざわざ雨を降らすことで予算がかかりましたアピールするのもどうかと……)

決まりごとを排除するといえば、この作品のプロットがそうだ。

ハッキリいうと、この作品において主人公の姫川は「何の意味もなさない」存在なのである。

事件はとある暴力団の下っ端が連続で殺されることからはじまる。

その捜査線上にヤナイケントという名前が浮上するのだが、上からの命令で「その名前には触れるな/追うな」と釘を刺される姫川。もちろんドラマを観てきた方ならお分かりの通りだが、『躍る』の青島よろしく、そんなことが許されていいはずがないと部下にも頼らず単独で事件を追う。

ここから映画のラストに触れるが、そのヤナイケントという男は警察がかつておこした不祥事に巻き込まれた男であり、彼の存在がマスコミにバレると警察の威信にかかわるということで、組織全体でその男自体をもみ消そうとする。

姫川は彼の存在にたどり着き、事件を全貌をつかむのだが、なんとその事件の概要はとっくに警察幹部が知っていて、最後の最後、姫川の捜査と関係ないところでそれをぜーんぶ記者会見で言ってしまうのだ。これまで1時間50分、どうなるんだろうと観てきた観客の心を踏みにじる最低最悪のラストである。

そもそも姫川というは犯人の感情にシンクロしやすいキャラクターとして存在し、その他の人にはわからない直感を頼りに捜査をし、それで上司の鼻をあかしてきたわけで、それが決まり事だったはずなのに、それをないがしろにするというのは、寅さんの恋が成就してしまうのと同じくらいの反則技であるといえる。あげく警察の上司連中はそのことをすでに知っていて、勝手に記者会見で発表したというのに、姫川に処分がくだってるというのも……

しかもそれだけじゃない。この映画版はそれまで築き上げてきたキャラクタースタディーも全部ぶち壊している。

まず、捜査方針がまったく真逆であり、それによる反発を覚えていた日下はなぜか姫川寄りなキャラになっていて、あげくガンテツも捜査こそヤクザまがいなことをしているが、やはりこれまた妙にいいヤツになっていたりする。

一番ヒドいのは主人公の姫川玲子で、事件にかかわっているであろう暴力団の若頭補佐・牧田に「同じ闇を持つ人間」というだけでいきなり抱かれるなど、いままでの「男なんて必要ありません、なぜなら過去に……」という設定はなんだったのかというトンデモ展開に空いた口がふさがらない。

あと組対四課をふくめた警察の無能っぷり。なんで、姫川が牧田とつるんでいるところまでキャッチしているのに、それをなかったことにしているのか。普通だったらとんでもないことをしているとして、尾行なりなんなりするはずなのだが、「女をつかって情報収集してやがる」と皮肉をいうだけ。あげく姫川の目の前で牧田は暴力事件を起こしているのに、なぜ姫川はだまって見ているだけなのか?

ヒドいといえば、犯人の動機である。牧田に親分になってほしくて、裏で人をバンバン殺していたのに、なんの説明もなくその心酔している牧田を刺すという行動がまったくわからない。これまでの苦労はなんだったのか。「オレ、こんなにがんばってきたのに、アニキは分かってくれない」とかそういう理屈なのだろうか。いや、なにも殺すことはあるまい。

原作を読んでないのにつらつら書いてきてもうしわけないのだが、これがもし原作者の意図だとしたら、なんでこんなことになったのか聞いてみたい。菊田は原作ではあまり登場しないキャラクターらしいので、西島秀俊がたくさん見れるようになったという意味ではよかったが、映画版の改変はもしかしたらあまり良い方向に傾かなかったのではないか。

というわけで、他にもいろいろと言いたいことはあるのだが、予想外に長くなってしまったし、原作読んでないからすっとんきょうな感想になっているかもしれないのでこの辺で。やはりおすすめはテレビ版の最終エピソード『ソウルケイジ』で、これもしかしたら映画版勝てないんじゃないの?とそのときに思ったが、その通りだった。あ、あとエンドクレジットはさすがのかっこよさだったので、最後まで席を立たないように。

インビジブルレイン (光文社文庫)

インビジブルレイン (光文社文庫)