実はヨーロッパの香り漂う映画『タクシードライバー』

タクシードライバー』という映画が好きである。初見の頃から変わらずにずっと好きだ。かなりの回数を観ているが、それはぼくだけではないだろう。

実はいろいろあってぼくもトラビスと同じような状況にいた。しかし、その鬱屈した感情は爆発するわけではなく、内にこもり続け、北野武よろしく「死にたい」という破滅願望に変わっていた。当然ながらそんなことできる勇気などなく、つねに引きこもり、一日中延々と映画を見続けていた十代だった。

「ぼくに比べればトラビスは不眠症を仕事に活かしていていいじゃないか、金だってたんまりあるし、女に声もかけれるし」と当時は思っていたものだが、何度も観ていく内にトラビスは移動中も部屋に帰っても、ポルノを観ていてもつねに孤独だということに気づいた。そして目に映るものといえば、この世のクズばかり。深夜にドンキにいっただけでイライラしてしまうぼくにとっては地獄のような毎日だろうと思うようになった。特に同じように朝方まで働くようになってからは、彼がトボトボと歩きながら酒を飲み帰路につくシーンがより切実なものとして伝わってきた。なんでオレだけがこんな時間まで……と毎回帰るまでの時間が苦痛でしかたがない。彼はその孤独と怒りを映画の中で爆発させるが、それを観て発散していたようなところもあったのかもしれない。

同じような理由でこの作品を愛する人は多いと思うが、ここ最近、ふとまた毎日のように見始めた。そしてメイキングや音声解説など改めて観てみたら今まで気づかないようなことに気づきはじめたのでそのことについて書こうと思う。

タクシードライバー』は実話を元にした作品である。

以前ドストエフスキーの『地下室の手記』を人におすすめされたとき「ある意味『タクシードライバー』みたいな話だよー」と言われたのだが、まさにそれのノンフィクション版といえる大統領候補を狙撃した犯人の日記をポール・シュレイダーが読み、自分に重ね合わせて脚本を書き上げた。それは最初デ・パルマの手に渡ったが、デ・パルマは自分で監督するよりもとスコセッシを推薦した――――という話は町山智浩著「映画の見方がわかる本」にくわしい。

デ・パルマがこの脚本をスコセッシに渡した理由は主人公の気持ちがより理解できるからだと思うが、なんとスコセッシは『タクシードライバー』を撮るにあたり、そのデ・パルマが得意とするヒッチコックのカメラワークを多用した

やたらと頭上から映すカットが多かったり、画面の中心に人物がいないというのはヒッチコックのシェーマであり、スコセッシ本人が演じたヒステリー男がアパートを観るショットは『裏窓』に酷似している。オープニングは『めまい』と同じだし、そもそもバーナード・ハーマンに音楽を依頼するなど、そのオマージュ加減はモロだったりする。もし、この作品をデ・パルマが監督していたらどうなっていただろう。もしかしたらデ・パルマはこの作品のタッチに影響され『殺しのドレス』や『ボディ・ダブル』というヒッチコックフォロワー作品を作り上げたのかもしれない。

そして、内容が内容なだけにあまりその観点から語られていないが、実は『タクシードライバー』はとてもヌーベルバーグ的な映画である。

最初の方でタクシー会社のガレージから出てきたトラビスが歩き、オーバーラップして、歩いていた距離を飛ばすように手前にくるカットがあるが、これはあきらかにゴダールの“ジャンプカット”を彼なりに再現したものだと推測できる。シュワシュワと胃薬がとけるコップを延々見続けるというのも『彼女について私が知っている二、三の事柄』からの引用であるが、そもそもこの作品は物語にまったく関係ないカットが随所に差し込まれ、それが妙なガタガタな編集とリズムによって印象を残すというところがあり(編集を担当したのはジョージ・ルーカスの奥さん)、そのへんも初期ゴダール作品と共通している。クライマックスでハーベイ・カイテルと対峙するシーンではロングショットの長回しでもって唐突に暴力がはじまるが、あれも『女と男のいる舗道』のクライマックスの手法と同じである(音声解説では『捜索者』のオマージュだと言っていた)。

同じヌーベルバーグでいえば、インタビューでスコセッシはルイ・マルの『鬼火』に影響を受けたと語っているが、バーナード・ハーマンのスコアは艶っぽく、ジャジーであるためにどちらかというと『鬼火』というよりは同監督の『死刑台のエレベーター』に近い印象を持った。特に深夜の街をひた走り、そこであの音楽がかかるところなんかはジャンヌ・モローが夜の街をさまよい歩くシーンを彷彿とさせた。昼間は昼間でブレッソンの『スリ』にも通ずるところがあり、実際ポール・シュレイダーは脚本を書く時に参考にしたと公言している(ちなみにコーンフレークにブランデーを入れるのはブレッソンの「田舎司祭の日記」からのオマージュだとか)。

さらにファスビンダーからの影響もあったという。特に『四季を売る男』が好きだと語り、カメラに映ってる人物の表情などを参考にしたらしいが、なるほど、確かに終盤のハーベイ・カイテルジョディ・フォスターのダンスシーンは『不安は魂を食いつくす』の冒頭と呼応するではないか。

もっといえば、スコセッシはこの作品をノワールとして撮ったと言っているが、そんなことを言い出したらキリがないし(フリッツ・ラングの『飾窓の女』のイメージもあるとかないとか…)、あげくそれも後付けなのかなんなのか分からないのでやめておく。宇多丸師匠が『グッドフェローズ』を評して「ヒップホップ以降の映画文法のお手本となった90年代最も重要な作品」といっていたがあながちそれは間違いではないといえる。というわけで、意外と衝撃的な内容を語りがちだが、実はこの作品はタランティーノよろしくサンプリングで出来たモノであり、それがそのまんま90年代の映画文法に結実するというのが興味深い。ここに書いたことはBDの特典映像ですべて分かることなので、この作品が好きな方は是非BDを買うこともおすすめしたい。

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2011-07-08 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

タクシードライバー』のレビューではいちばん感銘をうけたかもしれない。っていうかわりとパクってます。

あと「契約殺人」という映画の影響もあるというのをTwitterで教えていただきました。

https://twitter.com/satorubaba1988s/status/316454225959874560