芸人松本人志と監督松本人志は別として考えるべき『R100』

R100』をレンタルDVDで観た。

「頭がコンフューズするように撮ったんでね。作戦かもしれないけど良い映画とも悪い映画とも一切言わせなくて、なんて言っていいかわからないこの映画。けなすわけにもいかないし、褒めるわけにもいかないような映画っていう。なんか自分が答えちゃうっていうか、それに対する意見がなんだろうなって感じになればいいなと思ってたんだけど。頭で理解するより全体で体感しちゃうっていうか、体感してなんか妙な感じになればっていう手法っていうか、映画に対する新しい挑戦ではあるのね(一部略)」

これは北野武が『TAKESHI'S』のプロモーションで出演した『SmaSTATION』にて、香取慎吾と対談したときの発言だ。松本人志の『R100』を観たときにこの発言をすぐ思い出した。

R100』は長年松本人志を追っかけてきた者ならわかる松本人志の手法/作風/思想が詰め込まれていた。松本個人が主人公ではないが『HITOSHI'S』といってもいいかもしれない。淡々と続く日常、そこにある哀しみ。唐突な不条理性、破壊衝動、グロテスクな造形。お客さんを裏切りたいという気持ち。普通の映画にしたくないという願望。そして職業としての「M」………

これまでもその要素は多分にあったが、これは3.11以降の松本人志をそのまんま反映させてエンターテインメントに昇華させた作品だ。松本人志の作家性みたいなものは充分に出ているし、それが好きであれば受け入れられると思う。おもしろいかおもしろくないかでいえばよくわからないようなゾーンをわざと狙って作ってるようで、それで先ほどの発言を思い出したわけだが、映画のほころびも承知の上だぜと関係者に「シュールとは別に物語としておかしい部分」を指摘させるなど、半ば反則技のようなものまで飛び出している。本人は隙の無い映画に仕上がったと思っているだろう*1

ただ、こういう作品をつくるのは少し早くないだろうか?

芸人松本人志の作る映画というのは日本であれば通用するだろうが、世界になると芸人松本人志なんて誰も知らないわけで「かつての名匠が老け込んでから作ってしまったような映画」に自分を投影するのはもっとあとでもいい気がする。それがボケなのかなんなのかわからないのはキツいが、これは芸人としての松本人志がコントで傑作を作っていたことに対しての甘えというか、逃げとまではいわないが、(芸人として)やることやってきたからこういうことを(映画で)やってもいいでしょう?というような監督としてのひよった姿勢を感じてしまう。

極端な話、映画とテレビのコントはまるで違うものなので、一本の映画として一回誰もが認める傑作を撮らないと監督としてはキツいのではないか?例えば黒澤明だって宮崎駿だって後半の映画はアレなのが多いけど(とはいえ駿でぼくが好きなのは千と千尋以降の映画だったりするのでなんとも)、それが許されたのは誰もが認める傑作を全盛期のときに連発してるからでしょう。本人だって『七人の侍』や『トトロ』を二度も作りたくないだろうし。ああいう「イメージの断片とそれを並べたコラージュ感覚」という作風にシフトするのもなんとなく理解できる。実際宮崎駿は昨年放送されたドキュメンタリーで『「(女房にもいわれたよ)戦闘機を作った人の映画を作るの?トトロみたいなもん作ればいいのに?」って……トトロみたいなもんってトトロがあるからいいじゃんね?』と発言しているし、北野武も11本撮ってから『TAKESHI'S』と『監督・ばんざい!』を製作しているのだ。

宇多丸師匠もラジオでいっていたが、もっと松本人志という監督は映画を知るべきだと思うし、もっと普遍的なものがどういう風に作られるのかを研究すべきだと思う。だからといって『さや侍』は普通すぎておもしろくないのでそれはそれで難しいところではあるが………お笑いとテレビのことが分かってるからといって映画監督として良い作品が作れるか?というのは別問題。とりあえずフェリーニの『8 1/2』あたりから見始めてみてはいかがだろうか(すでに観てたらごめんなさい)。

R100 [DVD]

R100 [DVD]

*1:お金を払って観たお客さんがどう思うかは別にして