それでも恋するバルセロナ


22日昼続き
ブックオフに行ったあたりで、今日が皆既日食だった事を知る。日蝕の事に興味が無かったとはいえ、さすがに映画館で『ノウイング』を観てるのはどうなの?と思ってしまったり。

帰ったら衝撃のニュースが、、、なんと元ミッシェルガンエレファントのアベフトシ死去。42歳だそうだ。ミッシェルにアベフトシが加入した時、一発目に音を出した時に、「これは!!」と思ったという。アベフトシのギターはミッシェルの最強の武器だった。もうあのカッティングを聞けなくなってしまうのか、、、

23日朝
8時半から『それでも恋するバルセロナ』鑑賞。観れるかどうか微妙なラインだったが、24日に終わるんで滑り込みセーフだった。新潟ではほとんど公開される事のないウディ・アレン御大の新作で、ぼく自身、ウディ・アレンは大好きなのだけれど、死ぬ間際のアルトマンのように、新作を追っかけるという事はしなくなってしまった。ウディ・アレンはとにかく新作を撮りまくるので、その数に付いて行けなくなってしまったというのもある、公開もされないし。『マッチ・ポイント』も未見で、ヨハンソンが良く起用されてるというところに「ああ、さすがあいかわらず老けてないなぁ」と思ったもんだが、とりあえずウディ・アレンの映画はすごく久しぶりだ。

さて『それでも恋するバルセロナ』だが、ウディ・アレンらしい、狂った要素もふんだんに盛り込んであって、さらに抜群の安定感を誇る作品になっていた。

映画が始まると、いきなり、主人公達の状況や心情、人となりが、ぜーんぶナレーションで説明されるという演出が始まる。しかも、登場人物が語り部ではなくて、ホントにどっかの誰かが説明してるだけなのだ。こうやって書くとマイナスポイントのように思えるだろうが、語り部がキャラクターではなく、第三者からの視点なので、他人の恋愛模様を傍観してるだけという印象で映画を楽しむ事が出来るような仕掛けになっている。こういうのはある種のタブーなのかもしれないが、それを大胆にも全編に渡ってやってのけるあたりがさすが御大である。

それだけじゃない、恋愛に対する突き詰めた考え方と狂った思想は健在だ。『地球は女で回ってる』という作品でも、盲目の母の前で浮気相手とセックスするなんていうシーンがあったが、それに負けず劣らずのシーンがあり、まったく老けてる事を感じさせない。それどころか、ハビエル・バルデムペネロペ・クルススカーレット・ヨハンソンという強烈なキャストを得た事で、その表現はさらに加速度を増したようだ。特にペネロペ・クルスの演技がすさまじい。

さらに夏休みにバルセロナに来たアメリカ人という設定も効いていた。主人公達が映画ならではの不思議な関係に陥っても、夏が終われば、ニューヨークに帰るので、ひと夏だけの夢物語として、行動や心情に妙に納得させられてしまうのだ。

Mr.Childrenの『シーソーゲーム』という歌で「何遍も恋の辛さを味わったって不気味なくらい僕は今恋に落ちてゆく」というフレーズがあったが、ホントに恋愛をする事は冷静に考えれば不気味な事だと思う。激しい恋が幸せとも限らないし、だからと言って、安定な生活を手に入れたところで、今度はときめきがなくなってしまうだろう。理性が働きつつも、狂ったような恋愛をすると、いい大人であっても犯罪に近い行為にまで手を染めてしまう事だってある。確かに狂っていて、ありえなくないか?という内容だが、第三者からのナレーションと夏休みのバルセロナでそれがまったく嘘くさく感じなくなってるのは職人芸だ。

恋をする事自体が不気味なのだから、そこに形式やら倫理観などはあまり介入する事はないんじゃないだろうか。『それでも恋するバルセロナ』を観ると、そんな事をつい思ってしまうのであった。あういぇ。