オレは松本人志監督の三作目が早く観たい。

『しんぼる』と『大日本人』をDVDで改めて鑑賞したので、Twitter的に思いついたことを覚え書き。

・監督松本人志は「ヒーロー」とか「神」とか、誰しもが明確に定義出来ないデッカいものを自分なりに描こうとしてる。それは「お笑いのカリスマ」と言われてる自分自身のことでもあり、生涯追い求めている「笑い」のことでもある。故に「お前らが崇めてるもんって意外とこんなもんでっせー」的な視点が加わり、それを自ら演じることで、「オレもそんなもん」と嘯いてみせてる。嘯いてると書いたのは、笑いの才能に絶対の自信があるのは本人も分かってることだと思うので。

・ぼくは映画監督松本人志の作品が好きだ。おもしろいと思って観ている。だからと言って『3-4x10月』とか『ソナチネ』レベルの映画だとは思ってない。まぁ、実際、松本人志に『3-4x10月』のような映画は求めてないし。

・『大日本人』で山中にある発電所を目指してから大日本人に変身するシーン。あの一連の演出で映画監督松本人志は信用出来ると思った。説明を一切無くして、こういうことが起こってるというのを映像で分からせるのはとても映画的。

松本人志は「笑いの神」とか「笑いのカリスマ」とか言われてることに少しだけ違和感を覚えてるんじゃないだろうか。もちろん自分の笑いへの才能に疑いはないんだろうけど、その一方で「そこまで神格化せんでも」ということも思ってる気がする。

・なので「ヒーロー」って言っても実はこんなもんとか、「神」と崇めてみても、実はこんなもんとか、「ホントにお前ら分かってんのか?」という視点がある。しかも松本人志がそれを自ら演じることで、「カリスマとか言われてるけど、意外とオレって、普段はただのおっさんなところはあるでぇ」というメッセージになる。

・故に『大日本人』では「ヒーロー」なのにもかかわらず、力うどんや増えるわかめをご飯にかけて喰うみたいな、庶民的な生活を感じさせる描写を丹念に積み重ねた。

・逆に『しんぼる』では一切生活感を排除する。あれだけリアルに生活を感じさせる「ヒーロー」を描いたのにも関わらず、パジャマ男は白い部屋でどのように生活してたのかというのが一切描かれない。とにかくその男が何かの「しんぼる(象徴)」として見えるように徹底している。

・『しんぼる』が「シンボル」じゃないのは、『HANA-BI』みたいに、別な意味を持たせようとしてるのだろう。笑いのシンボルとか、神とか、もちろん男のシンボルとか。

・おかっぱのパジャマ男というのは、坊主頭でスーツという出で立ちの松本人志とは真逆の設定。

・おもしろいのはメキシコのシーンもルチャリブレという「ヒーロー」的なものを扱ってるということ。こちらも『大日本人』同様、普通の生活が丹念に描かれる。しかも冒頭シーンは奥行きのある絵を使っていて、『大日本人』のスクーターのシーンを彷彿とさせる。

・家に居る時もマスクをかぶってるのは、やっぱりすぐにプロレスラーと分かるようにしたかったからなのではないか?生活感を出しつつもシンボリックに描きたかったんだと思う。

・『しんぼる』は「神」についてのお話じゃないと思う。『しんぼる』で描かれる「神」のようなものは「笑い」であって、それは白い部屋と天使だ。パジャマ男は「神」ではなく、あくまで「芸人」であって、「笑い」という得体の知れない、それこそ「神」のような大きな物に試されながら対峙している。だから「おなら」とか「寿司と醤油にノリツッコミ」とか「リアクション」とか、出されたくだらないお題に一生懸命「自分なりの笑い」で応えようとする。もちろん、「笑い」にはゴールがなく、どれが正しいというのもないが、ある程度「笑い」にたいして知恵がついたパジャマ男はとりあえずゴールにたどり着く。

・『しんぼる』は「笑い」という観念をなるべく笑わせないように描こうとしている。だって、この人、笑わせようと思えば、いくらでも手段はあるはずだし、実際、ドラマの『伝説の教師』だって、フリートークの要素があって、かなり笑えた。

・パジャマ男は「神」のようなものに進化するわけだが、これはやはり「神」ではなく、「笑い」という掴めそうで掴めないものに操られてる「芸人」という解釈になるだろう。つまりそれは松本人志自身だ。彼は世界中の事柄を笑いで解決しようと思っている。それは松本人志の「笑い」に対する想いなのだろう。平和は笑いから生まれるみたいな。

大日本人 通常盤 [DVD]

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しんぼる [DVD]

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