ゼロ年代を代表する大傑作『紀子の食卓』

紀子の食卓』をDVDで観た。

その強烈な作家性をむき出しにし、結果賛否両論を巻き起こした『愛のむきだし』と『冷たい熱帯魚』だったが、この二本に大変な感銘を受けたので、園監督の他の作品でも借りて来ようかとなんとなく目についた『紀子の食卓』をレンタルしてきた。

見始めたのだが、女子高生が集団で自殺するという場面が出て来たので、「ん?」と思って、すぐに停止ボタンを押して、調べたところ、なんとこの作品は同監督の『自殺サークル』の後日談であることが判明したのだった。「知らなかったのですか!?」とか言われたが、その通りだ!知らなかったのである。知らなかったということは観てもないということだ。

Twitterでそんなようなことをツイートしたところ、観てなくてもそこまで支障はないと思いますよ。という心優しいレスをいただいたので、続きを観ることにした。

結果――――大傑作だ!!!

ひとつの家族とその家族をあるサークルに巻き込む女の4人の物語。紀子は家族の中に居心地に悪さを感じて、インターネットのサイトにのめり込み、そこで知り合った女に会うため家を出てしまった。インターネットで「上野54」を名乗っていたクミコは上京してきた紀子を「家族」として迎え入れるが、それは「レンタル家族」という彼女が経営していた組織だった。ところが紀子は「自分の家族」以上に「他者との家族」に家族以上のぬくもりを感じ、そのレンタル家族にのめり込んで行く。一方その頃、女子高生による集団自殺が発生した。手をつないでホームから54人が飛び降りるという衝撃的な事件が社会問題になっていく中、彼女たちが出入りしていたサイトと家出した紀子がつながり、紀子の妹であるユカもそのサイトの謎と姉を追って、家を出てしまう。ユカは「姉の次に私が家を出て行ったらお父さんはどう思うだろう?」という架空の日記を書き連ねるが、1人残された父はその架空の日記の内容とは裏腹に仕事に追われる日々をすごしていた。家族が崩壊したことにより母は自殺。娘を捜す決意をした父はその日記と「廃墟ドットコム」という言葉を頼りに彼女たちの居場所を突き止める………というのがあらすじ。

映画は各章に分かれており、それぞれが四人称で描かれ、彼らの心情や状況はすさまじい密度で比喩が詰め込まれたモノローグによって語られる。彼らが「こうありたい」という理想と「こうなってしまった」という現実、そして過去と現在が行ったり来たりして一直線に進まないというすさまじい手の込みようを見せ、一瞬目を離しただけでも付いて行けないほどの情報がものすごいスピードで展開されていく。バランスを欠いているほどすべてのパートがコラージュ感覚によって彩られ、その手法から純文学を読んでいるような錯覚を起こすが、それらが有機的に絡み合うことで、一筋のイメージを観客に想起させ、難解だったなという印象は与えない。

各章に分かれているというところや、それぞれの視点で物語が語られるなど『愛のむきだし』との共通点が多く、もっと言えば、後半の「組織に洗脳された家族を救う」というパートはそのまんまクライマックスにも使われている。愛は新興宗教からも絶望からも人を救えるというスケールの大きな希望を描いたのが『愛のむきだし』であったが、愛をもってしても人間同士は繋がり合えないという絶望を深く描き込み、「疑似家族」という「生」のパートに対して、「集団自殺」という「死」の繋がりを対にすることで、人は死ぬことで一つになれるのではないか?というメッセージをこちらに投げかけて来る。

前に観た二作もそうだったが、キャスティングと役者の演技が見事だ。何故園監督の映画では役者が全員これ以上ないくらいの名演技を見せるのだろう。これまでぼくの中で橋にも棒にも引っかからなかった吹石一恵や映画デビューとなった吉高由里子は唯一無二の演技を見せ、彼女たちをサークルに引き込むカリスマを演じたつぐみ、父親役の光石研もテンションの高い映画に負けない存在感を見せつける。

家族の崩壊/再生を描いてるということで、少なからず『愛のむきだし』や『冷たい熱帯魚』に通ずるものがあり、これらにハマった人のみおすすめ出来る作品。ぼくは園子温監督とは相性がいいかもしれないが、そのあまりの個性の強さと劇映画としてのバランスの悪さに拒絶反応を示す人がいてもおかしくないだろう。観るならそれなりの覚悟を持って!あういぇ。