歩くシーンを入れると素人臭くなるらしい。


10年以上前になる。当時北野武の映画に衝撃を受け、何か彼の映画のことが載ってる本はないかと探していたら、ロードショーだったか、スクリーンだったかで、たまたま北野武が特集されていたので、思わず購入した。その時にこんな一文が載っていたのを今でも覚えている。

歩くシーンを入れるというのは素人がよくやることで「その男、凶暴につき」はそのせいで素人っぽい印象となった。


細かいニュアンスなど違いはあるかもしれないが、その時にやたらと驚いてしまった。

なぜかというと、ぼくは映画において、歩くシーンがとても好きだったからだ。

映画評論家である故・淀川長治氏は「映画というのは感性が作る娯楽芸術」だと言っていた。つまりテクニックや演出のうまいヘタはあまり関係ないということになる。歌がうまいから心に響くかというとそんなことはなく、それだったらセックス・ピストルズがロック史を塗り替えることなんてなかったのだ。

正直『その男、凶暴につき』には、当時みんな驚かされたと思う。事件を追ってて刑事が走るんだけど、疲れて途中で歩いちゃうとか、未だに考えられない演出で、ただ単に歩き続けるシーンがあったというのは、やっぱり北野武って独特な感性があったんだと思わされた。しかも当時はまだ文化人の括りではなく、お笑い芸人だった彼が撮ったということも大きかった(俳優として活動していたとはいえ)。

たしかに第一作目に歩くシーンを入れる監督は多い。ただ、それが最も印象的であったりする。

レザボア・ドッグス』のオープニングクレジットはすこぶるかっこいいし、『勝手にしやがれ』で二人が寄り添うようにパリの街を歩くシーンはセットでなくカメラを持って外に出ようぜ!という所信表明があったし、『死刑台のエレベーター』は緊迫感と緊張感があったし、『イレイザーヘッド』は工場地帯を延々歩くことで何か恐怖感があったし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で都会をエヴァが歩くシーンにはこれから都会で暮らすんだっていうドキドキ感があったし、『カノン』で肉屋のおっさんがぐちぐち言いながら歩くシーンには人間を殺しかねない狂気があったし、『バッファロー’66』の主人公が便所を求めて歩くシーンには主人公がいかに気が小さかったかという説明すらしてた。

その発言をした評論家の名前も覚えてないが、なぜ歩くシーンが素人っぽくなってしまうのだろう、新人がやりやすい演出だし、簡単だからなのか?

小津安二郎だって『生まれてはみたけれど』で子供を歩かせてるし、レオス・カラックスだって、ウォン・カーウァイだって、キューブリックだって、スコセッシだって、みんなみんなワンカットでも歩くシーンを入れている。しかも印象的に。

特に歩くシーンにこだわった監督と言えば黒澤明だ。当時エキストラだった仲代達矢が町の中を横切るだけのほんの数秒のシーンに一日かかったというのはあまりにも有名な逸話だが、いかに黒澤が歩くシーンを重要視していたか伺い知れる。

前述の通り北野武もやたらと歩くシーンを入れる。

犯人を追う刑事。
浜辺を一列になって歩くヤクザ。
お母さんを探す子供とおじちゃん。
弟を探し外国を歩くヤクザ。
赤い綱で縛られたカップル。
サーフボードを抱えた耳の聞こえないカップル。

彼の場合はそれが特徴的で、すごく詩情にあふれてると思うのだが、それに感動を覚えるのはぼくが映画を観る素人だからなのだろうか?あういぇ。