大友はヤクザを辞めたがっている『アウトレイジ ビヨンド』

アウトレイジ ビヨンド』鑑賞。

北野武という監督は興行的には当たらない映画を作りつづけてきたが、映画作家としてはとても恵まれた位置からスタートした人だと思う。

タレントが政治家になりやすかったり、二世タレントとしていきなりテレビに出れたりと、圧倒的な知名度のおかげで“あの”ビートたけしは映画を撮ることが出来たわけだが、糸井重里が後に語ってるように、その知名度を逆手に取り、出来上がったものが、お笑いでもなく、とてつもない失敗作でもなく、フランス映画のムードを持った静寂なバイオレンス映画だったことに当時、誰もが驚かされたのではないか。

もちろん、深作欣二が元々撮るものだったという流れはあったものの、監督第一作目にして北野武は圧倒的な作家性をもった作家主義的な監督として、その地位をいきなり獲得することが出来た希有な存在だ。ベネチア映画祭のグランプリをとるなど、世界的な評価ももちろん高い。

そんな彼が自身の作家性を封じ込めつつ、得意のヤクザ映画でヒットを狙ったのが『アウトレイジ』だった。

もちろんカット割りのリズムなどは北野武そのものであるが、『アウトレイジ』は今までの北野武らしさ、そのモチーフは鳴りを潜めている。物語に関係ない叙情的なシークエンス、間をもたせたセリフのやりとり、キタノブルー、ナンセンスなギャグはひとつもなく、あげくに常連俳優すらひとりも出てないという環境のなか、バカヤローコノヤローの応酬と、どう展開するか分からないストーリーテリング、そして個性的な役者のアンサンブルと多彩な暴力描写で「見せる」方向にシフトした。

座頭市』以降、どう評価していいか分からない映画を意図的に撮り続けてきた監督だったが、このシフトチェンジにファンは大喜びした。もちろんぼくもそのひとりである。

が、北野武本人はどうだっただろう。最初から撮りたかった映画を好き勝手撮り、当たりはしないものの、その評価がどんどん上がっていき、さらに様式美をプラスした独自のエンターテインメントである『座頭市』は大ヒット。そしてまた好き勝手撮ったあとでのプロデューサーからの「いい加減に当たる映画を作ってください」との指示。しかもヤクザ映画。そして初の続編への挑戦。そもそもタレントとして食える人が、映画監督として、ここはひとつヤクザ映画でヒットを狙ってくださいといわれるのは複雑な心情もあったのではないだろうか。

どのような心境だったかは監督自らが口にしないと分からないが、その一片が『アウトレイジ ビヨンド』を観るとかいま見れるのである。

アウトレイジ ビヨンド』は前作で死んだとされていた大友の話だ。

実は北野武のモチーフには「生き残ってしまった(本来ならば死ぬはずだった)男が死に場所を求める」というものがあり、当然作品を追いかけてきたものなら、生き残ってしまった大友が死にむかうため、半ばヤケになりながら再び大暴れするという『BROTHER』的な話を期待するだろう。

ところがこの作品において大友はヤクザを引退したがっているのだ。

前作に出てきたずる賢いマル暴の片岡や、顔を斬りつけられた木村に焚き付けられても「オレ、もう歳だし、やる気ねぇよ」と弱音を吐く。さらにめんどうを見てくれる恩人もいて、無理に抗争をする必要はないという状況。しかし大友は片岡に利用されているというのを知りつつ、ヤクザの義理やケジメというひとことに動かされ、前作以上の凶暴性でもって、大暴れするというのが主なあらすじだ。

もし大友同様、北野武がこの作品にたいし、そこまで積極的ではないというふうに考えると、この設定には納得なのだが、それでも重い腰を上げつつ、やるときゃやるんだよと、あくまでやれる範囲で大暴れする大友のように、この作品は続編としてのケジメ、そして北野武の本気さが伺える。

まず、単純に『アウトレイジ ビヨンド』は北野武監督作品のなかでもダントツにうまい映画である。

「ただ単に役者がヤクザごっこしてるだけ」とあるところで評された前作がホントにヤクザごっこに見えてしまうくらい役者陣にたいする演出がパワーアップ。もちろん適材適所と素材の良さもあるのだろうが、怒号飛び交うシーンは見てるこっちが失禁してしまうくらいの迫力であり、とてつもなく怖い。特にバッティングセンターでの桐谷健太と、大阪での塩見三省は北野組初参戦とは思えないハマりっぷり。それだけじゃなく、ひとことも発しない高橋克典をはじめ、しゃべることがない役者も多く出ており、大人しくしていた人が後半でギャーギャー言い出したりと、役者の演技の抑揚のつけかたが今までとはまるで違っている。

特に前作でその表現力から出番が増えた加瀬亮は今作で見事な演技を披露。前作のテンションを彼だけが引きずり、終始バカヤローコノヤローを言い続ける。ビートたけしもそれに負けじと凶暴さを増し、目つきから口調から声の出し方からすべてが怖くなっている。

編集のリズムも画をじっくり見せるということを廃し、会話をおもしろく見せるということだけに特化していて、説明的なセリフがやたら多い前半も、テンポよく退屈せずに見れるようになっている。役者の声や発声法も十人十色を揃えており、バカヤローコノヤローが少なくなっても聞き心地が良い。

そして、今作ではカメラがやたらと動く。会話が多いから画が持たないということもあったのだろうが、北野武作品にしては珍しいくらいにカメラが縦横無尽に駆け回る。もちろんそれにあわせてカット割もかなり早い。映画のテンションこそ前作よりも落ちたが、映像とセリフの分量でいえば、続編の方が多いだろう。

というわけで、作風的にも監督の心情的にも、さらにシフトチェンジした今作だが、やはり作家性そのものは基本的に変わらないもので、おもしろさはあいかわらず。前作以上に込み入った、予測のつかないストーリーに身を任せていいだろう。前作よりも陰惨なシーンは少なめなので、痛い映画が苦手な人にもおすすめ。

それにしても、さすがに引退まではしないだろうが「オレ、もう歳だし」なんて弱音が出てくる北野武映画を観る日が来るとはなぁ……本人はそこまで食指が伸びないかもしれないが、弱音をはきつつ、これからも北野武監督にはこのようなバイオレンス映画を作り続けていただきたいものである。