『ブレラン』をレプリ側から描いた映画『ハンナ』

『ハンナ』鑑賞。新潟はセカンド上映ということで今頃公開。

あらすじは至ってシンプル。感情のない殺人マシーンとして育てられた少女が、自分の出生を知るために外の世界に飛び出していくというお話。

殺人マシーンが組織に追われながらなにがしというと、過度なアクション映画を想像するかもしれないが、どちらかというと、感情のなかった女の子が人間としての自己を確立するという方にウェイトがかけられており、少女の心の移り変わりなどを、セリフに頼らず表情と行動のみで演出するという、文芸的な香りすらただよう重厚なタッチがメイン。

そのため「静」と「動」がハッキリ分かれているが、「動」にあたるアクションシーンは長いワンカットを使い、しっかりとしたスタントによる殺陣と走るシーンを多く使いながら、そこにケミカル・ブラザーズによるド派手な音楽がかぶさるという演出で絶妙なバランスをとっており、語り尽くされたようなストーリーに独自性を与えているのが特徴。

小さい頃から分厚い辞書のみ与えられ、知識だけは豊富にあるものの、実際に「体験」しなかった彼女は、その「体験」によって人格がどんどん変わっていく。人は孤独に生きられない。誰かいなければダメというのはよく言われてることだが、ずばりそれがこの作品の根底にあるものだ。あえて恋愛の要素を絡めなかったのもこの手の映画にしては珍しく、それよりもシンプルに「人が人として生きるためには何が必要なのか?」というのを感情がない少女を使って描くことで、人間として生きている我々に問いかけて来る。

結局映画は自分のアイデンティティとは何か?何を目的として生きて来たのか?人間を人間たらしめるものは何か?という普遍的な要素を追い求めるという部分がキモになっていくわけだが、ハンナという少女が、組織に追われながらも自己を模索し、自らを生んだものと対立するというのは実は『ブレードランナー』をレプリカント側から描いたようなものである。

押井守が『イノセンス』を作った際、鈴木敏雄が「この映画がおもしろいのは完全な人間がひとりも登場しない。主人公に至っては脳みそ以外全部機械になってる。そういうキャラクターが動いたらどうなるか?単純に生気がないんですよ。じゃあ生気がないというのは何なのか?これは現代の人間ですよね」と言ったが、そういう風になってしまった人間が生きていくにはどうすればいいの?ということに対する答えを映画は提示してくれる。ま、それでもラストは突き放す形になってしまうわけだが。

というわけで、業によって戦わなければならない『修羅雪姫』のようなものを想像すると肩すかしを喰らい、期待してたものと違った!となるかもしれないが、『ブレラン』をレプリ側から描いた映画として観るとかなりおすすめ。と言っても新潟以外はとっくに公開終わってるけど、あういぇ。

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