愛をこめてコミニュケーション・ブレイクダウン

ぼく佐野元春の「コミニュケーション・ブレイクダウン」って曲がすごく好きなんですけど、その理由ってのがへっぽこなラップなんです。

ちょっとdisったみたいな感じになってしまいましたが、いわゆるちゃんとしたラップをはき違えてるというか、いわゆるヒップホップのマナーから外れてるんですよ。本人もヒップホップやるつもりはなかったって公言してますから、あえて意識的にこの感じにしたと思うんですが。

ハリウッドの映画でも間違った日本描写が出てくるときありますが、あれを観て楽しんでる感じとでも言いましょうか。B'zの「ZERO」とか「LOVE PHANTOM」もそうだし、モー娘。の「抱いてHOLD ON ME!」とかね。「とりあえず早口でなんかいっとけばラップなんだろ?」みたいなあの雑なのがすごい好きで。ツイッターでもリプしてもらったんですが、サザンの「愛の言霊」とかミスチルの「名もなき詩」とか、あとSMAPの「セロリ」もそうですね、なんてのもあって。

それでこのネタでブログ書けるじゃないと思って、書く前にいろいろ調べたらとんでもないことに気づいたんですよ。

佐野元春には「コミニュケーション・ブレイクダウン」という曲がないってことなんです。

どういうことかというと、ぼくが好きだっていう佐野元春の曲は「コミニュケーション・ブレイクダウン」ではなく「コンプリケーション・シェイクダウン」っていうタイトルだったんです。端的にいうと勘違いしてたわけです。

勘違いしてた理由はサビの印象的なところに「コミニュケーション・ブレイクダウン」っていうフレーズが入ってるので、それをタイトルだと思っていたんですね。youtubeで検索したらツェッペリンしか出てこなくてそりゃそうだろと。

いやね、こういう間違いや勘違いを長年してる人っていると思うんですよ。そういうのないですか?それこそ、セガールの「沈黙」シリーズをホントのシリーズだと思ってるとか「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」はティム・バートンが監督してるとか、イルカの「なごり雪」はオリジナルソングだと思ってるとか、時任三郎は「ときにんざぶろう」って読むとか……

違う!ホントはその日本ならではの間違ったラップを集めた記事が書きたかったんだよ……なんでこんなことに……

『ゼルダ』は人生を教えてくれるゲームである

すさまじく忙しかったのだけれど、そのほんの合間をぬって『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下、BotW)』をWii Uでプレイしていた。スーパー定時会社になったので、これからますますプレイ時間が増えることでしょう。

ホントはNintendo Switchを買ってプレイしようかなと思っていたんだけど、元々「BotW」自体、Wii Uで制作されており、『スプラトゥーン』と『ピクミン3』目当てに買ったまま放置していたので、せっかくだから成仏させようとWii U版を購入した。ただ『マリオ オデッセイ』がやりたいから結果Switch買ったほうがよかったんじゃねぇかって。しかし、もう一ヶ月以上プレイしているので、いまさら買い直して最初からやるというのも……

それにしても「BotW」評判通り……いや、それ以上の出来である。

今回の『ゼルダ』はオープンワールド仕様で、その世界が延々地続きになっている。だから目に見えるところはシームレスでどこまでも進んでいける。いちおう体力が続く限り、その肉体を使ってすすむ(泳ぐ、登る、歩く)ことが最低限のルールになっているため、世界の果ては「海」や「渓谷」で表現されているが、想像を超えた広い大地を延々歩いていく気持ちよさはシリーズ屈指であり、さらに今作ではルピーやハートがその辺に落ちているということがなく、金を稼ぐ概念もハートを回復させる概念も大きく変わっている。前者はそれこそ鉱石を採取し、それを売ったりして金に変え、後者はキノコや果物を山で採り、動物を狩ることで肉を得て、それを調理して食べることで回復する(もしくはベッドで寝る)。武器も敵から奪って調達するが、この世は諸行無常であるといわんばかりに使ってると壊れて消えてなくなる。シリーズ定番の最強の剣であるマスターソードに関しては力が弱まり、ある程度の時間で復活するという扱いだが、決して攻撃力は最強ではないという扱いになっている。

さらに、今回はクリアしなければならない大きなダンジョンも少なく、大きな目的もあるにはあるが道しるべもない。なので、延々とプレイすることも可能である。実際ぼくもダンジョンを突破せずにありとあらゆる世界にいき、ありとあらゆる場所にいちいち感嘆し、それだけで何時間も経っていたりした。この感覚に陥った人はぼくだけではないと信じている。

ぼくはよく『ゼルダ』は人生を教えてくれるゲームだと表現している。

それは98年に発売された『時のオカリナ』から顕著なんだけど、この世には太陽があって、光が差し、大地があって、水があって、風が吹き、夜がきて、また朝がきて、そこにぼくらは活かされている……という小沢健二が歌詞にしているような概念が3Dになってからの『ゼルダ』シリーズの根底にある気がして、それを毎回新作が出てプレイするたびに思っていたが、その極北が今回の「BotW」ではないかと。

タイトルが“野生の息吹”というだけあって、ホントに画面のなかで野生の息吹が溢れている。恐らくスペックでいえばPS4のゲームに軍配があがるのだろうが、その表現方法がすさまじい。風は吹くが場所によってはその風は強くなり、天気によっても左右される。光の当たり具合も、風になびく草木も、吹雪も灼熱の大地も、そこにちゃんと存在している。そのなかでリンクは寒さや暑さに耐えながら木々に生えた食物を採取し、動物を狩り、メシを作って喰らう……そこには人間の本質……人が生きると書いて「人生」というが、まさにそれがある。

といったわけで、発売から一年以上経ったが、まだまだ熱は醒めない「BotW」。時間に余裕ができたので、じっくりじっくりこれからも楽しんでいこうと思った。

とはいえ、なんやかんやであと火のところにいるでっかいトカゲ突破すればガノン一直線の状態なんだけどね。

純文学に挑んだアニメ『恋は雨上がりのように』

実写化でも話題になったアニメ『恋は雨上がりのように』を某サイトにて観た。

きっかけは単純に「しゃべくり007」に大泉洋小松菜奈が出ていて、ふたりが共演した映画ってなんだろう?と興味を持ったから。たいした番宣もしてなかったので、どんな話なのだろうと、わざわざyoutubeで予告編の映像を見たところ、45歳の冴えないファミレス店長を純粋な女子高生が好きになるという設定で、それがぼくの乙女心と甘酢*1憧れを刺激した。

あまり公言していないのだが、ぼくはおっさんと若い女の子が恋に落ちるという話がそもそも好きで、古くは『高校教師』であったり、スティーブ・ブシェミが監督した『トゥリーズ・ラウンジ』や、特に佐々木希が主演した『天使の恋』は何回も繰り返し観ているくらいで。あの『レオン』ですら、そういう感じで観てしまっている。毎度毎度それらを飲みながら鑑賞し、キュンキュンしながらふとんのなかで身悶えするのが……なんというか特に理由もないのだが……まぁ好きなのである。

なので『恋は雨上がりのように』も恐らく、『逃げ恥』から派生した“ムズキュン”モノのひとつとして作られたのだろうと思ってワクワクしながら見始めたら様子が違った。なんというか、この『恋雨』というやつは物語がなにひとつ大きく進展しないまま終わっていく恋愛物語なのである。

例えば、主人公は45歳で子持ちのバツイチだ。この時点で女子高生が好きになるにはある程度のハードルがあるし、彼女のことを好きな同級生もいるし、さらに彼女に手を出そうとするチャラい大学生もいる。そこまで彼らの恋愛にたいするハードルにあたるであろうガジェットを揃えているのに、それがまったく機能していないのだ。その同級生は恋心を抱いてるだけで、その内ちがう女の子を好きになり、チャラい大学生も一回デートしただけで、そのあとその女子高生になにをするわけでもない。一事が万事その調子で、つまり彼らの恋愛には“障害”というものがひとつも存在しないことになっている。

じゃあ、この物語では何が描かれているのかというと、恋したときの心の動きをすごく繊細にすくいとるというこの一点に集約されている。

これはその45歳のおっさんが純文学好きという部分にかかってくるのだけれど、恐らくこの作品はアニメで純文学的なことをやろうとしたのではないだろうか。だからこそ起承転結がないまま、キャラクターたちの心の動きだけを中心にストーリーが構築されているのだと思う。それは純文学ではよくあることで、人に純文学をおすすめする際「まぁ話としてはたいしたことないんだけど」なんて言い回しをすると思うが、感覚としてはあれに近い。この作品において重要である「雨」も、悲しみやこれから何かが起こる予兆の比喩としてはもちろん、他の何かであったり、単純に雨そのものとして使われていて、そのあたりも純文学らしいのだが、さらに急にシーンが飛んだりして、あれ?オレ?今のシーンボケーとしてて見逃したかな?と思うこともしばし訪れる。

話の核となる恋愛の設定だけでもこうである。そうなると、彼らの人生の目標もすさまじくささやかで、その終わり方というか、終わらせ方が絶妙で、この辺もフィクションとしては地味ではあるのだけれど、すごくリアリティがあるなと腑に落ちて、感動を覚えるのだ。

そもそも何をもってして夢をかなえるのか?というのは人それぞれであり、例えそれが現実離れしたものだったとしても、それを手にするのはほんの一握りで、たいがいの人は夢なんて叶ってないと思う。ただ、心持ちというか、ある程度自分の満足できるラインがあれば、そのやろうとする気力とか、その一歩だけで描き方によっては充分ドラマになり得ると思う。現実の地続きというか、日常の最低ラインというか、なにひとつない話であるはずなのに、心にこう……なんか小さい物がとどまるような、そういったおもしろさがこの作品にはある気がする。

と言ったわけで、ここまでくると実写版も楽しみなのだが、メイキングや予告を観るかぎり、その純文学感みたいなものがやや損なわれてるような気がして、ちょっと観るのが怖い。Twitterではアニメですら原作の良さが損なわれているなんて意見も目にしたくらいで、少し心配してしまうが、まぁいつか観るんだろうとは思う。

*1:甘酸っぱい恋愛が繰り広げられる作品のこと

半分のことでいいから君を教えておくれ

お久しぶりです。ブログを三ヶ月も放置してました。とりあえず本日、5月20日で今の仕事をやめることができました。次の職場も決まっていて、そこが残業という概念がないので、わりと時間取れると思います。はい。そのあたりでライター業の方も再開したく……編集部のみなさまごめんなさい。

さて、今更だが、最近フジファブリック(志村正彦、在籍時のもの)を聴いていた。

聴きだしたきっかけはGW最終日の夜。あいもかわらずの人手不足で「猫の手さえも貸したい」状態であくせくと過ごし、やっとこさ落ち着いて不機嫌にリビングで酒を飲んでいたら、せきを切ったように親父が突拍子もないことをいいだした。

細かいニュアンスは別に要約するとフジファブリックの「桜の季節」と「若者のすべて」と「茜色の夕日」をCDにやいてほしいとのことだった。

数年前、親父が車を買いかえたとき、iPodが使えるということで、ぼくが使ってなかったiPodに親父が好きな曲をつめこんでプレゼントしたのだが、その際に、勝手にぼくがおすすめする曲を何百曲も入れていて、そのなかにフジファブリックのその三曲が入っていた。

そのiPodはシャッフルして聴くというのを前提してプレイリストを作ったため、それこそ受動的に有象無象の曲を聴くということになるわけだが、そのなかでもうすぐアラセブにもなろうかというジジイの琴線にフジファブリックのその三曲が触れたということになる。とはいえ理由を聞いてみると、妙にメロディやら言葉が飛び込んできたのだという。ボーカルの声は特徴的だが、同じバンドの曲だと思わず、そのことを指摘したら驚いていた(実際曲のタイトルもわからないため、それぞれのサビのフレーズを口ずさんでぼくに説明していた)。

で、それをいわれて改めてフジファブリックの曲と向き合ったのだが、これが良いのである。

まずおもしろいのは歌詞というか、ことばだ。ボーカルが朴訥な歌い方であるとは別に、全体的に「ひらがな」で書かれたようなそんな印象がある。絵で言えばクレヨンで書かれたような温かみがあるというか、だからといって子供っぽい世界ではなく、叙情性、風景描写、人物描写に長けていて、しかも主人公が置かれた状況に余白があり、すべてを明示しない。それこそ北野武の映画のように「なにがあって、彼らはこうなったのか?」についての説明がなにひとつない。楽曲もそうで、わりと音に隙間があり、そのスカスカな感じが当時は好きではなかったのだが、今聴くと、その隙間もすごく気持ちよく感じる。

改めて聴いて驚かされたのがアルバム『MUSIC』に収録されている「夜明けのBEAT」と「Bye Bye」だ。

MUSIC

MUSIC

前者は『モテキ』の主題歌として話題になった曲なのだが、この曲の出だしのフレーズ「半分のことでいいから君を教えておくれ 些細なことでいいからまずはそこからはじめよう」という部分。

福山雅治は「ラブソングは答えが分かってるエンターテインメントだ」と「関ジャム」で言っていたが、だからこそ、その表現には細心の注意が払われてしかるべきだと思う。恋愛がはじまるときめきや、相手のことが好きだとわかったとき、実際は一目惚れも含めて、相手のことを知るのは半分以下でもいいはずで、だからこそ同棲してすべてが分かってから失敗するなんてケースもあるわけだが、この半分くらいは知っていたいという欲求も含めて、この出だしにはハッとさせられたし、キュンとしてしまった。

そして後者はPUFFYに提供し、本人がセルフカバーもしている曲。

状況としては恐らく、相手に好きな人ができたので別れてくれと言われた男が、悲しんでいるということなのだろうが、これが絵本のようなわかりやすい言葉選びでその別れを活写。そのシンプルさとポップさが絶妙で切なさを引き立てる。さながらThe Beatlesの「Hello Goodbye」ともいえる名曲。

奇しくもこの二曲はアルバムの収録順でいうと並んでいて、恋愛のはじまりを歌ったあとに別れを歌がやってくるというおもしろい構成になっている。この二曲でガツンとやられたので、そのまま両国国技館で行われたライブDVDも購入してしまったくらい。このライブDVDがすこぶるよく、思わず富士五湖文化センターでのライブDVDも注文した。これはまだ届いていない。

ちなみに二曲おすすめしたが、いちばん好きなアルバムは「TEENAGER」であり、フジファブリックを聴くならこの一枚だけで充分くらいに思っているので、もしこの記事で興味を持っていただけたならそれを聴くことをおすすめする。

TEENAGER

TEENAGER

TEENAGER(生産限定アナログ盤) [Analog]

TEENAGER(生産限定アナログ盤) [Analog]

「忘れることはできないな そんなことを思っていたんだ」……まさかこのフレーズが突き刺さってしまうとは書いた志村正彦本人も思うまいて……

『アンナチュラル』第7話がちょーすばらしかった件

Twitterでやたら評判が良かったというのもあり、同スタッフが手がけた『Nのために』も傑作だと思っていたので、なんとなく『アンナチュラル』を2話から毎週リアルタイムで観ていた。

とはいえ、実はみんなほど熱狂していたわけでもなく、結構「?」マークが点灯しながら鑑賞していることもしばしば。

ここからネタバレ全開

例えばその見始めた第2話である。

SNSで知り合った者同士が自殺した……というタイムリーな話ではあるのだが、あの犯人はなんであの家で一家心中すること知ってたんだろう。しかも練炭自殺になぜ詳しいのか?法医学者ですら遺体を調べないとわからない事実(冷凍した死体と練炭自殺の死体は似ている的な)を本かなんかで読んで調べたのだろうか?よしんば調べて知っていたとしても「あの一家心中が別人で自殺サイト内で知り合い、サイト内で話をしてあの家で心中しようかと決め、それを犯人が見ていて、そこに別な場所で監禁されて殺された三毛猫が放り込まれた……」というややこしいことをしてまでなぜ死体を隠そうとしたのか?あんだけ離れた場所なら山にでも捨てればいいだけの話で、そこまで運び込むことも大変でリスクがありすぎる。

おもしろかったんだけどあまりの情報量の多さとスピード感で終わってみたら「???」という印象があり、これはこのあとのいくつかのエピソードでも同じような感想をもった。

特に顕著だったのは第5話だ。

駆け落ちし、結婚寸前だった彼女が入水自殺した。目撃証言もある。しかし婚約者である男は彼女が自殺するはずないという。だからUDIラボで調べてほしいというのがあらすじ。

結果、彼女は自殺ではなく、事故的に溺死。犯人は彼女の幸せを妬んでいた同僚で、彼女と同じ恰好をして海に飛び込み、それを目撃させることで、自殺に見せかけようとしたというのがことの真相。

それを最後の最後数分で一気に説明してから衝撃的なオチで終わったため、考えるスキも与えなかったのだが、終わってみると、自殺に見せかけて飛び込んだとして、そこからバレないように隠れて泳ぎ切って陸にあがるってのは結構難しいはずで、彼女がそのまんま死んでしまってもおかしくはない。そしてそのあと、彼女は全身しとどに濡れた状態で家に帰ったことになるのだが、仮にすぐ近くに車があったとして、その車に乗り込むところを見られたとしたら……とか、その方法じゃなくてもよくね?と思ってしまった。もっといえば、事故的に亡くなってしまったのなら、それを警察にいってしまったほうが……

とまぁおもしろい部分と納得いかない部分が解離しすぎた結果、終わってみると奥歯にモノがはさまったような感じになってしまったのだが、先日放送された第7話がすごかった。

これまたSNSを使った話で、動画サイトで死体を見せ、その死体を見た段階で彼が何故死んだのかを解明するというもの。

ぶっちゃけここ1年くらい最新の映像作品に触れてなかったのだが、ぼくの印象だと、フィクションに出てくるSNS描写というのはいかに現実に近づいているのか?を再現するだけに留まっていたような気がする。映像に出てくるLINEもTwitterも、なかなかリアルだな程度で、添え物でしかなく、ここまでSNSが身近になったからこそ、ここがリアルじゃないと、入り込めないという人も多いのではないかと思う。だから入り込めさえすれば、あとはそれと関係ない恋愛やら犯罪やらを描けばいいわけで、エンタメのなかでそれがしっかり機能していたわけではなかったのだ。『何者』でさえもそれを思ったくらいで、実際にブログに書いたときもそのことにはなにひとつ触れなかった。

『アンナチュラル』はそこを見事に突破した。

この7話では、なぜ動画配信サイトなのか?なぜ観覧者数を集めたのか?というのが物語のキーであり、仕掛けになっていて、オチもメッセージもセリフもその仕掛けをしっかりと援護射撃しているような印象を受けた。いつもはワイワイつっこんだりしながら、家族で観ていたのだが、あまりの物語の見事さと重厚さに皆がだまって食い入るように観ていた。妹に至っては翌日に2回目を観ていたくらい、この7話には感動していた。

ぶっちゃけ『アンナチュラル』はこの7話だけを観るために観てもいいとさえ思える。それくらいのクオリティとスピード感とメッセージ性がある。あまり細かくは書かないが是非多くの人に同じ感動を味わってほしい。おすすめしたい。心から。


……実はライターの仕事が舞い込んでおりまして、こんなこと書いてるヒマはないのであります……京極夏彦の新刊も読んだのでその感想もあげたいんですが、いかんせん14時間労働なもので……