タイトルからして思わせぶり『三度目の殺人』

どうもお久しぶりです。仕事が変わってスーパーホワイト企業に入社し、薄給ながらもバイトのような労働時間なので、映画を観る時間が増え、毎日映画を一本必ず観る生活と相成りました(といっても昔観ておもしろかった映画を見返してるだけだけど)。はてなダイアリーも終了するということで、いずれ移行したいと考えております。「FILMAGA」にて映画評を2本書いたんですが、編集部から「マクラの部分が長すぎる」とお叱りを受けたので、この辺で本題に入りたいと思います。

フジテレビで放映した『三度目の殺人』を観た(軽くネタバレしてますが、知ってても問題なく観れると判断しました)。

もう観た人も多いと思うので、あらすじは割愛するが、まぁ雑に説明すれば「誰が本当のことを言っているのかがよくわからず、真実は“薮の中”という」いわゆる“ラショーモンケース”のスタイル。いまさらなんでそんな映画を作るのか?という話になるのだが、映画を見終わるころにはタイトルの意味がわかるとまぁそういうことになっている。

いまの日本映画ではめずらしく原作がない、オリジナル脚本モノであり、なるほど、映画でしかできない、映画でしか体験できないお話の運びとなっていて「ノーカット放送」と画面の右上に終始表示されていたのも納得。監督自身が無駄だと判断した部分は徹底して描かず「テレビ局側で勝手にカットしたんじゃないの?」と邪推が入ってもおかしくないくらい話が急激に飛ぶ。何かを脚色した脚本ではないというのが読まずとも分かるようになっているのはさすが是枝監督である。

あいもかわらず演出はうまく、いわゆるリアリティラインの引き方が絶妙で、食事をしながら会話するとか、その食べてるものが映画的ではないとか、きったない路地裏みたいなところを歩くとか、おおよそ映画をファンタジーとして描かない姿勢は今作でも徹底しているものの、エンターテインメントとしての華も兼ね備えていて、それを一手に引き受けたのが福山雅治であり、『そして父になる』のような、抑えた演技は抑え、いわゆる「うぁんちゃんさぁ(あんちゃんさぁ)」的な福山調の演技が今作ではちょこちょこと顔を出す。

ハッキリいうと映画としては100点の出来だと言ってもいいと思う。是枝監督作品(観たのは片手で数えられる程度だが)のなかでいちばんあっという間に終わった感があり、体感速度でいうと1時間くらいで、それは編集も脚本も自分で手がけてるから成せる技なのだろう。端的にいっておもしろかった。ミステリーでいうと宮部みゆきの『火車』や桐野夏生の『柔らかな頬』を読んでるような感覚を覚えた。直木賞芥川賞を両方取れるくらいのバランスも良いと思う。

ただ、映画としておもしろいのは認めたうえで、このブログでも何度か表明している通り、いくつかの是枝監督作から見受けられる「社会問題を提起して金を稼ぐ人」の印象がやっぱり拭えないのは確かだ。特に今作において、それは怒りすら覚えるレヴェルであり、結局「この人、そのことに関して本気で考えてないっしょ?映画をおもしろくするためのガジェットとして使ってるっしょ?」と思ってしまう。

例えば「この世には生まれてこない方がよかった人間がいる」と容疑者が声高に宣言し、弁護士もそれに同調するシーンが出てくる。これは完全に『セブン』におけるジョン・ドゥの演説に反論できないサマセットの関係性なのだが、そのことが終始一貫されるわけでもなく、さらっとその論議は終わる。

前半であいまいになっていた“容疑者の動機”が中盤から後半にかけて出てきて、それこそ福山も出演した『容疑者Xの献身』や桐野夏生原作の『OUT』、洋画でいえばビリー・ボブ・ソーントンが自ら監督した『スリング・ブレイド』のように「この世には殺した方がいい人間がいるからオレが殺したんだ」という展開になってくるのだが、それも「はたしてそれは真実なのでしょうか?」とはぐらかし、せっかく勇気を出して告発しようとした被害者の娘のそれもないがしろにされてしまう。

後半ではいきなり「オレは殺してない!」という主張を受け入れた弁護士と、ならば本気で事件をやりなおすべきという新人らしい検事がでてきて『それでもボクはやってない』のように司法制度にメスを入れるような展開になるのかな?と思いきや、それはそぶりで「まぁ裁判ってそういうもんだから」といなしたりする……と、何から何まで中途半端なのだ。

恐らく監督のスタンスとしては「現実にはいろんな問題があって、いろんなことが複雑に絡み合っている。だからそれぞれ思ったことをそれぞれに考えてください」ということなのだろうが、それは裏を返せば、攻撃/炎上されないように各方面に気を使ったということでもある。

てか、そんな映画観たいか?

少なくともぼくはそんな中途半端な思想をひけらかした出来杉くんみたいな映画なんて観たくもないし、無価値だと思う。であるならば、デイヴィッド・フィンチャーやアンドリュー・ケビン・ウォーカーのように「この世はクソだし、クズばかりだから映画のなかでならオレは人を何人も殺してみせる」というちょっとアレな思想が終始一貫されてるような映画のほうが鬱屈した怒りを溜め込んでる人にとっては価値があるとすら考えている。

一本の映画を貶すためにいちいち過去の名作を引き合いに出すのはイヤミなシネフィルがよくやるからやりたくはないのだが、イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラントリノ』や『ミスティック・リバー』に比べたら足下にも及ばないというか、比較すること自体が失礼というか、見終わったあとは“深い”余韻どころか“不快”な余韻が残ってしまった。

そもそも『三度目の殺人』って誰の目線なんだよ!別に容疑者自身は三度目の殺人を犯してないじゃん!!!タイトルでもそれっぽいこと言いやがって!!

サニーデイ・サービスの丸山晴茂が亡くなってしまった

サニーデイ・サービスのドラマー丸山晴茂が47歳の若さで亡くなってしまった。体調不良でバンドを離脱していたのは知っていたが、亡くなるなんて思ってなかった。

サニーデイ・サービスはとてつもなく思い入れがあるバンドである一方で、アルバムに良い意味でのブレがあり、それ故にほとんど聴いてないアルバムもあるが、新譜が出たらチェックするし、過去作はいまでもガンガン聴いている。それこそ「サニーデイ以前/以後」みたいなことは言われてもいいのではないか?というくらい後世の影響も計り知れない。

特に4枚目のアルバムがすごく好きで、このアルバムはかなり内省的でありながら、リズム隊がドタドタしており、弾き語れるような曲に対してもへんてこりんなドラムが付いていて、その独特のタイム感(?)みたいなものがサニーデイ・サービスの魅力の一端を担ってるのではないかなと思っていた。それもこれも丸山晴茂の個性がなせる技だった。

その年のベストによく上がっていた名盤『DANCE TO YOU』に関しては、その体調不良で丸山不在で制作されたが、彼ならこうやって叩くだろうというイメージで曽我部恵一が叩いた。つまり丸山晴茂がもどってくるという前提だったのだ。

その矢先の訃報である。なんということだろう。本当に言葉が出ない。しかも死因が食道静脈瘤破裂ということで、酒飲みがよくなる病気(?)らしく、曽我部恵一も「彼は何年も自分が抱えるアルコールの問題を克服しようと戦っていました」とコメントしていた。

愛をこめてコミニュケーション・ブレイクダウン

ぼく佐野元春の「コミニュケーション・ブレイクダウン」って曲がすごく好きなんですけど、その理由ってのがへっぽこなラップなんです。

ちょっとdisったみたいな感じになってしまいましたが、いわゆるちゃんとしたラップをはき違えてるというか、いわゆるヒップホップのマナーから外れてるんですよ。本人もヒップホップやるつもりはなかったって公言してますから、あえて意識的にこの感じにしたと思うんですが。

ハリウッドの映画でも間違った日本描写が出てくるときありますが、あれを観て楽しんでる感じとでも言いましょうか。B'zの「ZERO」とか「LOVE PHANTOM」もそうだし、モー娘。の「抱いてHOLD ON ME!」とかね。「とりあえず早口でなんかいっとけばラップなんだろ?」みたいなあの雑なのがすごい好きで。ツイッターでもリプしてもらったんですが、サザンの「愛の言霊」とかミスチルの「名もなき詩」とか、あとSMAPの「セロリ」もそうですね、なんてのもあって。

それでこのネタでブログ書けるじゃないと思って、書く前にいろいろ調べたらとんでもないことに気づいたんですよ。

佐野元春には「コミニュケーション・ブレイクダウン」という曲がないってことなんです。

どういうことかというと、ぼくが好きだっていう佐野元春の曲は「コミニュケーション・ブレイクダウン」ではなく「コンプリケーション・シェイクダウン」っていうタイトルだったんです。端的にいうと勘違いしてたわけです。

勘違いしてた理由はサビの印象的なところに「コミニュケーション・ブレイクダウン」っていうフレーズが入ってるので、それをタイトルだと思っていたんですね。youtubeで検索したらツェッペリンしか出てこなくてそりゃそうだろと。

いやね、こういう間違いや勘違いを長年してる人っていると思うんですよ。そういうのないですか?それこそ、セガールの「沈黙」シリーズをホントのシリーズだと思ってるとか「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」はティム・バートンが監督してるとか、イルカの「なごり雪」はオリジナルソングだと思ってるとか、時任三郎は「ときにんざぶろう」って読むとか……

違う!ホントはその日本ならではの間違ったラップを集めた記事が書きたかったんだよ……なんでこんなことに……

『ゼルダ』は人生を教えてくれるゲームである

すさまじく忙しかったのだけれど、そのほんの合間をぬって『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下、BotW)』をWii Uでプレイしていた。スーパー定時会社になったので、これからますますプレイ時間が増えることでしょう。

ホントはNintendo Switchを買ってプレイしようかなと思っていたんだけど、元々「BotW」自体、Wii Uで制作されており、『スプラトゥーン』と『ピクミン3』目当てに買ったまま放置していたので、せっかくだから成仏させようとWii U版を購入した。ただ『マリオ オデッセイ』がやりたいから結果Switch買ったほうがよかったんじゃねぇかって。しかし、もう一ヶ月以上プレイしているので、いまさら買い直して最初からやるというのも……

それにしても「BotW」評判通り……いや、それ以上の出来である。

今回の『ゼルダ』はオープンワールド仕様で、その世界が延々地続きになっている。だから目に見えるところはシームレスでどこまでも進んでいける。いちおう体力が続く限り、その肉体を使ってすすむ(泳ぐ、登る、歩く)ことが最低限のルールになっているため、世界の果ては「海」や「渓谷」で表現されているが、想像を超えた広い大地を延々歩いていく気持ちよさはシリーズ屈指であり、さらに今作ではルピーやハートがその辺に落ちているということがなく、金を稼ぐ概念もハートを回復させる概念も大きく変わっている。前者はそれこそ鉱石を採取し、それを売ったりして金に変え、後者はキノコや果物を山で採り、動物を狩ることで肉を得て、それを調理して食べることで回復する(もしくはベッドで寝る)。武器も敵から奪って調達するが、この世は諸行無常であるといわんばかりに使ってると壊れて消えてなくなる。シリーズ定番の最強の剣であるマスターソードに関しては力が弱まり、ある程度の時間で復活するという扱いだが、決して攻撃力は最強ではないという扱いになっている。

さらに、今回はクリアしなければならない大きなダンジョンも少なく、大きな目的もあるにはあるが道しるべもない。なので、延々とプレイすることも可能である。実際ぼくもダンジョンを突破せずにありとあらゆる世界にいき、ありとあらゆる場所にいちいち感嘆し、それだけで何時間も経っていたりした。この感覚に陥った人はぼくだけではないと信じている。

ぼくはよく『ゼルダ』は人生を教えてくれるゲームだと表現している。

それは98年に発売された『時のオカリナ』から顕著なんだけど、この世には太陽があって、光が差し、大地があって、水があって、風が吹き、夜がきて、また朝がきて、そこにぼくらは活かされている……という小沢健二が歌詞にしているような概念が3Dになってからの『ゼルダ』シリーズの根底にある気がして、それを毎回新作が出てプレイするたびに思っていたが、その極北が今回の「BotW」ではないかと。

タイトルが“野生の息吹”というだけあって、ホントに画面のなかで野生の息吹が溢れている。恐らくスペックでいえばPS4のゲームに軍配があがるのだろうが、その表現方法がすさまじい。風は吹くが場所によってはその風は強くなり、天気によっても左右される。光の当たり具合も、風になびく草木も、吹雪も灼熱の大地も、そこにちゃんと存在している。そのなかでリンクは寒さや暑さに耐えながら木々に生えた食物を採取し、動物を狩り、メシを作って喰らう……そこには人間の本質……人が生きると書いて「人生」というが、まさにそれがある。

といったわけで、発売から一年以上経ったが、まだまだ熱は醒めない「BotW」。時間に余裕ができたので、じっくりじっくりこれからも楽しんでいこうと思った。

とはいえ、なんやかんやであと火のところにいるでっかいトカゲ突破すればガノン一直線の状態なんだけどね。

純文学に挑んだアニメ『恋は雨上がりのように』

実写化でも話題になったアニメ『恋は雨上がりのように』を某サイトにて観た。

きっかけは単純に「しゃべくり007」に大泉洋小松菜奈が出ていて、ふたりが共演した映画ってなんだろう?と興味を持ったから。たいした番宣もしてなかったので、どんな話なのだろうと、わざわざyoutubeで予告編の映像を見たところ、45歳の冴えないファミレス店長を純粋な女子高生が好きになるという設定で、それがぼくの乙女心と甘酢*1憧れを刺激した。

あまり公言していないのだが、ぼくはおっさんと若い女の子が恋に落ちるという話がそもそも好きで、古くは『高校教師』であったり、スティーブ・ブシェミが監督した『トゥリーズ・ラウンジ』や、特に佐々木希が主演した『天使の恋』は何回も繰り返し観ているくらいで。あの『レオン』ですら、そういう感じで観てしまっている。毎度毎度それらを飲みながら鑑賞し、キュンキュンしながらふとんのなかで身悶えするのが……なんというか特に理由もないのだが……まぁ好きなのである。

なので『恋は雨上がりのように』も恐らく、『逃げ恥』から派生した“ムズキュン”モノのひとつとして作られたのだろうと思ってワクワクしながら見始めたら様子が違った。なんというか、この『恋雨』というやつは物語がなにひとつ大きく進展しないまま終わっていく恋愛物語なのである。

例えば、主人公は45歳で子持ちのバツイチだ。この時点で女子高生が好きになるにはある程度のハードルがあるし、彼女のことを好きな同級生もいるし、さらに彼女に手を出そうとするチャラい大学生もいる。そこまで彼らの恋愛にたいするハードルにあたるであろうガジェットを揃えているのに、それがまったく機能していないのだ。その同級生は恋心を抱いてるだけで、その内ちがう女の子を好きになり、チャラい大学生も一回デートしただけで、そのあとその女子高生になにをするわけでもない。一事が万事その調子で、つまり彼らの恋愛には“障害”というものがひとつも存在しないことになっている。

じゃあ、この物語では何が描かれているのかというと、恋したときの心の動きをすごく繊細にすくいとるというこの一点に集約されている。

これはその45歳のおっさんが純文学好きという部分にかかってくるのだけれど、恐らくこの作品はアニメで純文学的なことをやろうとしたのではないだろうか。だからこそ起承転結がないまま、キャラクターたちの心の動きだけを中心にストーリーが構築されているのだと思う。それは純文学ではよくあることで、人に純文学をおすすめする際「まぁ話としてはたいしたことないんだけど」なんて言い回しをすると思うが、感覚としてはあれに近い。この作品において重要である「雨」も、悲しみやこれから何かが起こる予兆の比喩としてはもちろん、他の何かであったり、単純に雨そのものとして使われていて、そのあたりも純文学らしいのだが、さらに急にシーンが飛んだりして、あれ?オレ?今のシーンボケーとしてて見逃したかな?と思うこともしばし訪れる。

話の核となる恋愛の設定だけでもこうである。そうなると、彼らの人生の目標もすさまじくささやかで、その終わり方というか、終わらせ方が絶妙で、この辺もフィクションとしては地味ではあるのだけれど、すごくリアリティがあるなと腑に落ちて、感動を覚えるのだ。

そもそも何をもってして夢をかなえるのか?というのは人それぞれであり、例えそれが現実離れしたものだったとしても、それを手にするのはほんの一握りで、たいがいの人は夢なんて叶ってないと思う。ただ、心持ちというか、ある程度自分の満足できるラインがあれば、そのやろうとする気力とか、その一歩だけで描き方によっては充分ドラマになり得ると思う。現実の地続きというか、日常の最低ラインというか、なにひとつない話であるはずなのに、心にこう……なんか小さい物がとどまるような、そういったおもしろさがこの作品にはある気がする。

と言ったわけで、ここまでくると実写版も楽しみなのだが、メイキングや予告を観るかぎり、その純文学感みたいなものがやや損なわれてるような気がして、ちょっと観るのが怖い。Twitterではアニメですら原作の良さが損なわれているなんて意見も目にしたくらいで、少し心配してしまうが、まぁいつか観るんだろうとは思う。

*1:甘酸っぱい恋愛が繰り広げられる作品のこと