カラックスは走り続ける『汚れた血』


彗星が近づいているため異常気象が続き、愛のないセックスによって感染する「STBO」という病気が蔓延しているパリ。列車に乗ろうとした窃盗団のジャンは何者かによって線路に突き落とされ轢死してしまう。あるアメリカのギャングに金を借りていたジャンはその金を返せず、見せしめのために殺されたのだった。ジャンの友人であり、窃盗団の仲間でもあるマルクの前に現れたギャングは二週間以内に金を返せとマルクに命じる。マルクは手先の器用なジャンの息子を仲間に引き入れ、開発中の噂されるSTBOの特効薬を盗み出そうと計画するのだが……というのがあらすじ。

ゴダールの子供」という最大級の賛辞で迎えられた早熟の天才カラックスの監督二作目。『ボーイ・ミーツ・ガール』で映画に対して素直な感覚を披露し、ブレッソンゴダールの諸作品のような手触りを持っていた彼はわずか二作目にして、「映画自体が映画史を評価する」という批評性と過度なフィクションを見事に同居させることに成功した。

ちょうどエイズが猛威を振るいはじめた時期であろう86年にSTBOという架空の病気を設定するなど、非常にタイムリーな感覚であるが、その反面、彗星が近づいて来ていて暑いという世紀末的なSF設定を持ってくるなど、実のところかなりフィクショナルである。プロフェッショナルが集まり、計画を練って実行に移すというケイパーものを軸に、フィルム・ノワール、メロドラマ、ミュージカルをごった煮。そして原色飛び交う色彩設定など、映画はさながら『気狂いピエロ』のカラックス版といった具合だが、引用で並べ立てられ、何処へいくのか分からないジェットコースターではなく『汚れた血』はかなりしっかりとした骨組みで娯楽映画の体裁から逸脱してはいない。

主人公たちは言葉少なく、どちらかというと肉体の躍動で全てを表現するが、これも過去のサイレント映画を彷彿とさせる。アクションとは役者が身体全体を使って表現することなのだと、改めてこちらに提示してきたのもカラックスだった。特に有名なデヴィッド・ボウイの曲にのせて主人公が走り出す中盤のシーンはラストと呼応し、なんともいえない余韻が身体中を駆け抜ける。

そもそも腕が衰えてしまった初老の窃盗団がアメリカのギャングに怯え、腕のある若手を使って、かつての時代を取り戻すという設定自体が、当時のフランス映画界をそのまんま反映したとも思える。だとすれば彼が『気狂いピエロ』を下敷きにするというのはごく自然のことであり、「政治に傾倒していったゴダールだが、彼は映画の革命児だったはずだ!それを忘れるな!」というメッセージが映画全体に含まれてる気がしてならない。ラストでドニ・ラヴァンの愛を拒み続けたジュリエット・ビノシュが走り出すが、あれはゴダールブレッソンに影響を受けたカラックスにさらに影響を受けた人がまた次の映画と作り出すというメタファーでもある。現に走り出したビノシュにマルクは追いつけず、止めることが出来ない。カラックスが『汚れた血』でやってのけたのはまさにフランス映画界のリブート/再生であった(それが興行的に成功したかとかその辺はおいといて)。

肌の色を極限まで飛ばして白にし、それを軸にカラフルな衣装と小道具で色づけするという色彩設計には完璧主義者を通り越して何かに取り憑かれたかのような狂気すら感じるが、彼の完璧主義はこの次の『ポンヌフの恋人』でさらに発揮されることになるのであった――――続く。

汚れた血 [DVD]

汚れた血 [DVD]

90年代を変えた男の出発点『レザボア・ドッグス』


宝石強盗をするために集められた素性を知らない6人の男たち。彼らの中に警察の犬(裏切り者)が居て、宝石強盗は失敗に終わる。果たして裏切り者は誰なのか……

いやはや、何度巻き戻して観ただろうか。DVDがなかった時代にVHSで購入して、テープが切れるまで観た。この映画を観たときの衝撃を未だに忘れられない。90年代を代表するという意味でタランティーノの映画では『パルプ・フィクション』が有名だろうが、やはりデビュー作である『レザボア・ドッグス(以下『レザボア』)』が彼の原点であり、低予算ながらこの時点で彼は自分のやりたいことをバッチリ成し遂げていた。

『レザボア』は一部の映画評論家の間では不評だ。「内面が描かれていない」「演出が未熟」「マニアックな会話とバイオレンスを散りばめ、過去の映画を引用しただけの映画」――――過去の映画を引用しただけの映画?過去の映画を引用しただけでは『レザボア』はとっくに廃れている。『荒野の用心棒』もそうだ。ただパクっただけでは黒澤ファンから非難轟々になるはず。あの映画が未だに語り継がれるのは細部にあったリアルさである。西部劇の常識を覆したリアルな造形と細部。だからこそ『用心棒』よりも好きだというファンも多いのである。実は『レザボア』にもそれは当てはまる。『レザボア』はただ単に過去の映画をパクっただけの映画ではない。ではなぜ『レザボア』はここまで語り継がれ、タランティーノは90年代を代表する監督になったのか?

冒頭、全身黒ずくめの男たちがレストランでおしゃべりを繰り広げる。マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞についての解釈。映画においてまったく物語に関係ないシーンであるが、これが斬新だった。アルトマンの『ロング・グッドバイ』も自殺した親友を巡る話だが、『レザボア』と同じように、冒頭に物語に関係ないシーンを10分も入れている。ここで各キャラクターの性格や映画のムードを提示するわけだが、『ロング・グッドバイ』と決定的に違うのは『レザボア』はその無駄とも思えるポップカルチャーに関する小粋な会話が随所に差し込まれる点である。

『レザボア』は一切内面が描かれない。それがこの映画の弱点でもある。誰がどういう過去を持ち、どういう心理で行動しているのかはバッサリカットされている。これはタランティーノが意図したものなのかは明らかではないが、そういう部分を補っているのが無駄な会話シーンであるといえる。

強盗をするために集められた彼らはボスにこう言われる。「本名を明かしてはならない」――――つまり彼らは一度限りの集まり。そこに感情移入や人となりは皆無。ましてや自分の出身地や過去などは絶対に仲間に話してはならないのである。だからこそ彼らには過去が無く、映画の中でも描かれない。だからと言って黙ってれば映画にはならない。彼らはプロだが、映画でそれをリアルに描いてしまうとおもしろくない。タランティーノはこの映画における矛盾を無駄な会話シーンで補っている。これがなければ本当に行動だけ描いてしまい、まったく中身のない映画になっていたはずだ。

チップが不合理だというピンクは現実的で冷静。的確なツッコミを入れつつ、残虐なジョークもいうホワイトはギャングの定型で親分肌。ホモを差別するような会話のブロンドは自分がホモであることを隠してるような男。口数が少ないオレンジ(何故口数が少ないのかは、映画を観れば明らかになっていく)、完全に親父の影に隠れているナイスガイ・エディは半人前、キャラクターの過去が描かれないはずなのに、キャラクターの情報を我々は会話から読み取ることが出来る。ぺちゃくちゃしゃべって中身がないと批判を受けた『レザボア』だが、その魅力のひとつはこの会話シーンにあるのだ。

さらに映画は直線的には進まない。強盗の映画なのに、強盗後のシーンが中心で、さらに映画の中の時制はグッチャグチャである。観ている人は置いてけぼりを喰らいそうになるが、だんだんと明らかになっていく全体像を観客は繋げながら観ていく。映画の中でキャラクターたちに起こっていること、その強盗に参加することになった経緯など、どんどんフラッシュバックによって差し込まれていくわけだが、これも従来のハリウッド映画には観られなかったスタイルである。全てのシーンが繋がったとき、観客は出てくる登場人物の誰よりも深く登場人物のバックグラウンドを知ることになるわけだが、ラストでの興奮はこの直線的に進まない物語のお陰であるといっていい。

重要なのはセリフや物語の進み方だけではない、音楽も重要だ。流れてるのは70年代のサウンドだが、マニアックすぎない所が彼のいいポイントである。『レザボア』で流れてる音楽は当時しっかりヒットしている楽曲が中心で。宝石の入ったバッグとかけた「リトルグリーンバッグ」や「医者は何処?腹痛が治らない」という歌詞のエンドロールの曲はタランティーノの本領発揮と言ったところで、使われてる音楽には少なからず意味がある。既成の音楽を引っ張って来て使うことの重要性を改めて90年代に提示したのはタランティーノであったことも忘れてはならない。

そして膨大な映画からの引用。その匂いは少し知的でもあり、マニアックでもある。ぼくは映画に興味を持ち始めたときにこの作品を観たのだが、改めていろんな映画を見直してから観ると様々な映画の匂いがあちらこちらに出てくる。しかもそれらを知らなくても充分に楽しめたのは『レザボア』が一般的な構造をしているからであろう。『パルプ・フィクション』ではその匂いを極端に抑えたが、『レザボア』はむき出しだ。ゴダールが“映画の中で映画史を評価”したように、タランティーノも今まで見て来た映画を『レザボア』で評価しなおす。『風は友の彼方に』と『血とダイヤモンド』が一番有名だが、レオーネからの影響も大。三すくみの決闘、それだけでなく何かが起こるまでの長いストローク長回しも彼の影響だといっていいだろう。黒いスーツなのは『男たちの挽歌2』で、残虐なシーンを直接見せないのは『スカーフェイス』、仁義という言葉が浮かぶホワイトの行動も任侠映画の影響が見られる。

演出面ではカメラワークとアングルがやはり独特。時間はまっすぐに進まないのにカットバックは極端に少なく。ローアングルを多用したのも見逃せない。『吠えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』やレオーネ作品に出て来た、下からキャラクターの顔を煽るカットはタランティーノ作品では当たり前になり、タイトルバックではストップモーションを取り入れるなど、脚本家としての才能以外に演出家としても光るものがある。

これはキャスティングにも見られ、ハーベイ・カイテルは史上最高の演技をこの映画で見せ、スティーブ・ブシェーミもブレイクするきっかけになった。特に一番難しい役どころを演じきったティム・ロスは魅力的で、外っ顔はいいが、実はサイコでホモというマイケル・マドセンの役も見事。クリス・ペンもナヨナヨした演技でキャラを成立させている。

ストーリーや有名なシーンの解説を省いても、これだけの魅力に包まれる『レザボア・ドッグス』――――タランティーノはこの一作で世界をガラリと変えた。今ではタランティーノシンドロームに犯され、ありとあらゆる亜流作品が次々に出て来ては「タランティーノ」のマネだと言われる。だが、彼はこれ一発に終わらずこの作品以降どんどんスキルアップしていくのだ。小説の手法を大胆にも取り入れた『パルプ・フィクション』人物描写がなかったと言われた『レザボア』から一気にキャラクタースタディの手腕を発揮した『ジャッキー・ブラウン』そして究極のB級サンプリング映画『キル・ビル』を発表。これは香港映画、時代劇、マカロニウエスタンという娯楽の王道ではない作品を評価しなおした作品になった。その先を見せつけた『デス・プルーフ』と特大ヒットを記録した『イングロリアス・バスターズ』も特出した出来。

現代でもっとも重要な映画作家タランティーノ。彼の原点を探るという意味で『レザボア』は絶対に観なくてはならない作品。日本人にこの作品が受け入れられたのは「仁義」という日本独自の文化が根付いていたからこそだと思うが、日本人よりもそれを深く理解していたのは映画オタクのタランティーノだった。彼が提示した仁義に答えるべく、日本の観客はタランティーノの映画を観続けている……といったら言いすぎか?

参考資料:キネ旬ムック「フィルムメーカーズ・クエンティンタランティーノ」。『レザボア・ドッグススペシャル・エディションの特典映像。淀川長治×杉浦孝昭「おしゃべりな映画館」

レザボア・ドッグス [Blu-ray]

レザボア・ドッグス [Blu-ray]

主人公が歌い踊らないミュージカル『女は女である』

ゴダールレビュー第三弾ということで、今回は『女は女である』である。「『女は女である』である」というのは書くぶんには問題ないが、声に出して言うとちょっと変な感じ。ま、そんなことはどうでもいいのだが、それにしてもゴダールのことを書いてからアクセス数が若干下がったのは何故なのだろう。きょーみねぇよ!ゴダールなんてよ!ってことなのだろうか。すいません、寝る前にちょこちょこ観てたものですから少しだけお付き合いください。ちなみに16〜7歳くらいのときはゴダールにかぶれてましたよ、全発言とか全評論とか図書館で借りて読んでました、ええ。でも内容はまったく覚えてません。

世間的にはゴダールと言えば、『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』だろうが、個人的にはゴダール=『女は女である』と言いたいくらいこの作品がゴダールを象徴していると思う。監督三作目にして自らのスタイルを完全に確立。この作品はダントツにゴダールの中でも“おもしろい”作品で、これとは著しくタッチは違うが、個人的には『女と男のいる舗道』と並ぶゴダールの最高峰である。

ゴダールのスタイルはデビュー作である『勝手にしやがれ』である程度出来上がっていた。だが、この『女は女である』は明らかにゴダールの中でも映画自体が浮いていて、これ以降のゴダール作品はこの『女は女である』を基調にしていると断言出来る。シンプルすぎるストーリー、ミュージカルの換骨奪胎、男と女、カラフルな色彩、長回し、字幕の挿入、カメラに語りかける主役たち、軽快な音楽、アンナ・カリーナ、90分以内のランタイムなど、ゴダール登録商標が盛りだくさんで、この作品こそぼくにとってのThis is ゴダールなのである。ジョン・ウーの作品で2丁拳銃やハトが出るのと一緒といえばいいだろうか。とにかくこれを好きになれるかで、ゴダールを愛せるか愛せないかが分かる作品――――でありながらも踏み絵のようにはなってない。悲劇が多いゴダール作品の中でも幸福感に包まれているのも特徴的。

あらすじは子どもが欲しい女と結婚するまで子どもはいらないという男のドタバタ劇で実にシンプル。アンナ・カリーナ、ブリアリ、ベルモンドの演技と原色飛び交う画面設計が観る者に迫ってくるが、シネスコを意識したのかカメラワークは緩やかで、主人公たちが歌い踊らない音楽のシーンをミュージカル映画のように演出していく。特に主人公たちの心情が字幕になり、しゃれおつなフォントで画面を覆い尽くすという演出が今観ても斬新だ。

ハッキリ言ってこれに政治だとか、言葉の羅列が加わった事でゴダールの作品は中期以降どんどん変わっていく。つまりそういう贅肉を削ぎ落としたシンプルな作品。映画としても最小限の表現をとっているので、制作費もかかってないだろうが、実に楽しい。無茶苦茶なカット割りで素人臭かった『勝手にしやがれ』からここまで映像作家として飛躍したのもすごく、個人的にはこの作品から『気狂いピエロ』までのゴダール作品が今観ても楽しいと思えるところだ。

気狂いピエロ』になると映画として破綻スレスレのところをいくことになるが、『女は女である』は“映画”としてとにかくよく出来ている。芸術だとか、難解という言葉も付きまとうゴダールだが、この作品に限っては純粋な娯楽映画でちっとも難解ではない。だからもしゴダールに興味があるのならば有名な『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』よりもこっちを断然にお勧めする。初期のゴダールゴダールのすべてでもあるわけだ。大傑作にして、生涯のベスト作。

女は女である HDリマスター版 [DVD]

女は女である HDリマスター版 [DVD]

タランティーノも愛する『はなればなれに』

映画ファンの間で必ず一回は話題になるゴダール。素人に毛が生えた程度と見る人もいれば、彼こそ天才だという人も多いだろう。やれプロデューサーだの、やれセットだの、やれ脚本だの、そういったしがらみを一切無視し、「とりあえずカメラ持って、外に飛び出して、いろいろ素材を撮って、編集してみようぜ!」という気持ちで映画を一本撮ってしまった人――――そしてそれが思いのほか映画史と観客に愛されてしまった人――――ゴダール

たしかに悪しき影響も与えたかもしれない。カット割りやストーリーの運びもめちゃくちゃ。そもそも編集だってまともにされてもいない。ところがその革新性に当時の若者は飛びついた。その奇怪は画は独創的なシークエンスから生まれ、彼の映画は完成されてないものも多いが、一目見たらとても“かわいらしい映画”に仕上がっている。特に『勝手にしやがれ』が世界に与えたショックは大きく、これ以降の映画の在り方が一切変わってしまった。

ゴダールは“映画”を使って“映画”を再構築することを得意としている。換骨奪胎の精神でジャンル映画を自分のものにしようと心がける。ミュージカル、メロドラマ、ギャング映画――――様々なジャンルを彼なりに再生するのが、ゴダールのやり方だ。そしてゴダールはすべての作品にB級映画からの引用を隠さない。ではそんなゴダールB級映画を撮ったらどうなるか?その答えがこの『はなればなれに』にある。

『はなればなれに』にはプロットらしいものはほとんどない(というか彼の映画にはほとんどない)。よくある“男ふたりと女ひとり”というヤツである。チンピラ二人が大金を持ってる女に近づき、微妙な三角関係を築きながら犯罪が破綻するという、この時期のゴダールらしさに満ち溢れた作品だ。ゴダールはこの作品を「失敗作」としているが、タランティーノはこの作品を支持しており、自身の映画会社にこの作品のタイトルを拝借したことは有名な話。

この作品は本筋と関係無いシーンがとにかく特出している。意味もなく一分間沈黙させたり、ルーブル美術館を全力疾走させたり、ビリー・ザ・キッドのマネごとをさせたりする。特にカフェで音楽がかかり、いきなり主役の三人が踊り出すシーンが印象的で、ゴダールの作品では“主人公が歌わないミュージカルシーン”というのがよく登場するが、この作品では一番それが効果的に使われている。これみよがしのナレーションもつくのだが、わざわざ「遅れて来た観客のために映画の説明をしよう」といってみたり「彼らの心情を説明することも出来るがここでは省こう」と、映画を観ている観客に映画を観ていることを意識させる演出も健在だ。

そしてそれらゴダールらしいシークエンスを体現するのが、彼の永遠のミューズ、アンナ・カリーナである。この作品の彼女はすこぶる魅力的だ。小悪魔的なかわいさで男を翻弄し続け、男前よりもおっさんになびくという部分はあの『冒険者たち』にも通じるものがある。

この作品を語る時、いったいどんな言葉が似合うだろう?筋はない。金はかかってない。映画は破綻寸前のところを行ったり来たりしてめちゃくちゃだ。ハッキリ言ってしまえば初期ゴダール作品の中でもこの『はなればなれに』の出来は浮いている。完成度で言えば、この作品以前の『女と男のいる舗道』や『女は女である』の方が上だ。だが、どうもぼくはこの映画を一目観たときからすべてのシーンがこびりついて忘れられない、非常にかわいらしくて抱きしめたくなる魅力に溢れている。なんというか、しつけられてないぶさいくな子犬という感じだろうか。

別に飛び抜けておもしろいわけでもないし、感動もしない。でもどうしようもなくかわいらしくていとおしい。それが『はなればなれに』という映画である。有名どころのゴダール作品を観たうえで観ることをおすすめしたい。あういぇ。

はなればなれに [DVD]

はなればなれに [DVD]

血――出ない。スローモーション――ない。でもまぎれもなくペキンパー印『ケーブル・ホーグのバラード』

若い時は映画を観て泣くなんて恥ずかしいというか、ありえないことだったのだが、年齢を重ねるごとに映画を観て涙してしまうことが回数が増えて来た。最近じゃ泣かせる演出がある/ない以前に、映画的なカタルシスが全身を貫くだけで涙腺が決壊する始末で、年末に『エグザイル/絆』を見返したら、ラストのレッドブルを蹴る前のフランシス・ンの行動だけで号泣してしまった。2010年のベストワンだった『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』でもアンソニー・ウォンが死地に向かうときに見せた笑顔に号泣した。いわゆるこれが男泣きというヤツだろうか。

男泣きと言えば去年、午前十時の映画祭で『ワイルドバンチ』を観た。なんどもなんどもDVDで観ているはずなのにスクリーンで観たら初めて泣いてしまった。映画館が持つ魔力というのもあるだろうが、年齢が映画に追いついて来たというのもあるのかもしれない――――なんてことを酒を抜いた日に考えてしまった。

というのも、昨日シラフでペキンパーの『ケーブル・ホーグのバラード*1』を観てやっぱり号泣してしまったからである。

時は西部末期。ケーブル・ホーグという名前以外、何者なのかわからない男が仲間の裏切りに遭い砂漠に取り残される。彼は4日間歩き続け神にこう祈り続けた「一滴でいいから水をくれ」――――そんな祈りが通じたのか、彼は砂嵐の中で湧き出る水を見つける。その水のお陰で生き延びた彼はその水の土地を2ドルで買い、砂漠の中の給水所として商売を始めた。そして女と出会い、彼はその砂漠に生きることを決意するというのがあらすじ。

ペキンパーといえば圧倒的なカット数、スローモーションによる詩的なバイオレンス、そして、男の意地をかけた復讐がトレードマークだが、彼の作品の中でも『ケーブル・ホーグのバラード』は異色作と呼ばれている。何故ならば一切血なまぐさいバイオレンスが登場しないからである。

彼が得意技を封印して撮ったのは、ずばり人間の本質と時代に取り残されて行く男という彼が生涯に渡って描き続けていたテーマだ。バイオレンスという得意技を封印したことで、そのテーマがより明確になり、男泣きしてしまうのだ。

一時ペキンパーの作品に対して風当たりが強く、ファシズムだのマッチョだの言われたこともあった。確かに『わらの犬』や『ガルシアの首』での女性の扱いはかなり酷く、今までのハリウッド映画ではあり得ないような描き方をする。もちろんこういうシークエンスに拒否反応を示す人もいるだろう。

ではペキンパーは女性差別をしていたのか?と言われると答えは「NO」だ。『ケーブル・ホーグのバラード』を観るとそれがより明確になる。

ペキンパーの作品に出てくる女は酷い扱いを受けながらもすこぶる魅力的だが、『ケーブル・ホーグのバラード』のヒロイン:ヒルディはその中でも別格の扱いだ。生きるために女は娼婦にだってなる。それを差別するのはどうか、娼婦だって人間じゃないかとペキンパーはこの映画で問いかける。この作品に流れる優しさは彼のもうひとつの一面だ。じゃなかったらこんな映画を作れるわけがない。それが証拠に『ケーブル・ホーグのバラード』ではラストにこんなセリフを言わせている。

「大抵の○○(ネタバレになるので書かない)は人間を美化しています。〜中略〜 そんな事は間違ってる。人の心には善も悪も存在する。〜中略〜 彼は善人でなければ悪人でもない。実に人間臭い人間だ。守銭奴でケチで人をだましたかもしれないが、根は正直だ」

この言葉はすべてのペキンパー作品はおろか、彼自身にも当てはまるのではないだろうか。

そして、時代に取り残される男を描いて来たペキンパーであるが、この映画では時代はおろか街にも住めない男として描いていく。復讐を理由に彼は砂漠に留まるが女は違う。彼女は街に生きる術があることを知っていて、彼女は砂漠では生きられない。

彼が少し時代に歩み寄ろうとする理由――――それはずばり女である。頑に街を拒んでいた彼を動かしたものは、金でもなく、酒でもなく、女だったのだ。

細かいカット割りや激しいバイオレンスがないと書いたが、代わりに映像はかなり詩的に撮られている。コメディタッチの演出も駆使しており、冒頭はワイプとスプリットスクリーンを組み合わせ、さらにオーバーラップも使っている。ペキンパーは時代に取り残される男を描く手法として、今までに無い新しい演出を取り入れた。

『ワイルド・バンチ』や『戦争のはらわた』なんかを愛する人にとっては非常にテンポも遅くて緩いかもしれない。実際ぼくも昔はそうだった。だが、ここまで愛に満ち溢れた内容と、さらにペキンパー自身の映画が批判されていたという事実が重なり合ったとき、涙腺が決壊した。

復讐という男が成し遂げなければならない信念、そして女が居ないとオレは生きていけないんだというメッセージ。この作品を嫌う人はたくさんいると思うが、やはり傑作だ。もしダメだったという人も、ふとした時に見返すといいかもしれない。あういぇ。