タランティーノも愛する『はなればなれに』

映画ファンの間で必ず一回は話題になるゴダール。素人に毛が生えた程度と見る人もいれば、彼こそ天才だという人も多いだろう。やれプロデューサーだの、やれセットだの、やれ脚本だの、そういったしがらみを一切無視し、「とりあえずカメラ持って、外に飛び出して、いろいろ素材を撮って、編集してみようぜ!」という気持ちで映画を一本撮ってしまった人――――そしてそれが思いのほか映画史と観客に愛されてしまった人――――ゴダール

たしかに悪しき影響も与えたかもしれない。カット割りやストーリーの運びもめちゃくちゃ。そもそも編集だってまともにされてもいない。ところがその革新性に当時の若者は飛びついた。その奇怪は画は独創的なシークエンスから生まれ、彼の映画は完成されてないものも多いが、一目見たらとても“かわいらしい映画”に仕上がっている。特に『勝手にしやがれ』が世界に与えたショックは大きく、これ以降の映画の在り方が一切変わってしまった。

ゴダールは“映画”を使って“映画”を再構築することを得意としている。換骨奪胎の精神でジャンル映画を自分のものにしようと心がける。ミュージカル、メロドラマ、ギャング映画――――様々なジャンルを彼なりに再生するのが、ゴダールのやり方だ。そしてゴダールはすべての作品にB級映画からの引用を隠さない。ではそんなゴダールB級映画を撮ったらどうなるか?その答えがこの『はなればなれに』にある。

『はなればなれに』にはプロットらしいものはほとんどない(というか彼の映画にはほとんどない)。よくある“男ふたりと女ひとり”というヤツである。チンピラ二人が大金を持ってる女に近づき、微妙な三角関係を築きながら犯罪が破綻するという、この時期のゴダールらしさに満ち溢れた作品だ。ゴダールはこの作品を「失敗作」としているが、タランティーノはこの作品を支持しており、自身の映画会社にこの作品のタイトルを拝借したことは有名な話。

この作品は本筋と関係無いシーンがとにかく特出している。意味もなく一分間沈黙させたり、ルーブル美術館を全力疾走させたり、ビリー・ザ・キッドのマネごとをさせたりする。特にカフェで音楽がかかり、いきなり主役の三人が踊り出すシーンが印象的で、ゴダールの作品では“主人公が歌わないミュージカルシーン”というのがよく登場するが、この作品では一番それが効果的に使われている。これみよがしのナレーションもつくのだが、わざわざ「遅れて来た観客のために映画の説明をしよう」といってみたり「彼らの心情を説明することも出来るがここでは省こう」と、映画を観ている観客に映画を観ていることを意識させる演出も健在だ。

そしてそれらゴダールらしいシークエンスを体現するのが、彼の永遠のミューズ、アンナ・カリーナである。この作品の彼女はすこぶる魅力的だ。小悪魔的なかわいさで男を翻弄し続け、男前よりもおっさんになびくという部分はあの『冒険者たち』にも通じるものがある。

この作品を語る時、いったいどんな言葉が似合うだろう?筋はない。金はかかってない。映画は破綻寸前のところを行ったり来たりしてめちゃくちゃだ。ハッキリ言ってしまえば初期ゴダール作品の中でもこの『はなればなれに』の出来は浮いている。完成度で言えば、この作品以前の『女と男のいる舗道』や『女は女である』の方が上だ。だが、どうもぼくはこの映画を一目観たときからすべてのシーンがこびりついて忘れられない、非常にかわいらしくて抱きしめたくなる魅力に溢れている。なんというか、しつけられてないぶさいくな子犬という感じだろうか。

別に飛び抜けておもしろいわけでもないし、感動もしない。でもどうしようもなくかわいらしくていとおしい。それが『はなればなれに』という映画である。有名どころのゴダール作品を観たうえで観ることをおすすめしたい。あういぇ。

はなればなれに [DVD]

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