サマーに恋した500日

やっと新潟で公開された『(500)日のサマー』を観て来た。

12モンキーズ』の原作として有名になった『ラ・ジュテ』という作品がある。この作品は記憶をテーマにしており、記憶を表現するのにスチール写真を連続させて、そこにナレーションをかぶせるという手法をとった。パソコンやなんかで簡単に作れるスライドショーみたいなものである。

そしてタルコフスキーの『鏡』という作品があるが、これも記憶をテーマにしたものだ。こちらは静止画ではなく、映像なのだが、やはり記憶を表現するために断片的なイメージを散りばめ、真っすぐに時間が進んでくれない。

ぼくがこの二作品を観て思ったのは、記憶そのものが頭の中にある映像なのに、それを映像で表現すると、何かを切り取って、バラバラなものになるということ。

記憶とはDVDのチャプター画面のようなものなのだろう。そこからサムネイルをクリックすると、その時の思い出が再生される。

特にそれが自分をさらけ出す恋愛ともなれば、楽しかった思い出や悲しかった思い出が頭の中でアトランダムに再生される。妄想や「こうなるはずだったのに…」という理想も含めて、ぐちゃ混ぜになって息も付かせぬスピードで駆け巡る。

『(500)日のサマー』はずばりこれをそのまま映画にしてしまった作品だ。

運命によって結ばれる事を夢見る男が自由奔放に恋愛を楽しんでいるサマーという娘に恋をする。この恋物語が、一直線に進まずバラバラに再生され、主人公は現実を知り、そして成長するというもの。

今までの恋愛映画と言えば、男女が出会って、反発しながらも、結ばれて終わりなんてのが定番だが、その定番を覆すような始まりから、映画を見る事の喜びが全身を駆け抜けて行く。

これを男の目線から描いたことも大正解。「サマーが一体何を考えてるのか分からない!」というもどかしさが、主人公とシンクロし、最後には深い感動を生むのである。


さて、ここからは個人的な思い出。以前ちょこっとだけ書いたが、当時3年間付き合っていた彼女にフラれた。半年間だけ別れていた期間があり、その時にショックで15キロ痩せた。結局その後にヨリを戻し、うまくはいったんだけど、互いの気持ちが冷め切っているのに、付き合っていることに疑問を感じ、結局ピリオドを打つ事に決めた。

ところがぼくは、その一週間後にまた別な娘と付き合う事になった。

その出会いというのも衝撃的で、まさに『(500)日のサマー』のラストでサマーが主人公に話すような運命を感じた。しかも、その娘というのはサブカル趣味の持ち主で、好きな監督は市川崑キューブリック楳図かずおしりあがり寿を愛読し、聞いてる音楽はZAZENBOYSとビークルだった。こんな趣味の良い女の子になんて二度と会えないかもしれない!と出会ってから数日だけメールをし、そのまますぐに付き合った。

まぁ、いろいろあって、結局その娘ともお別れすることになったのだが、id:BKRdaiさんのエントリから引用させてもらうと、

オタクの方がよくおっしゃる「趣味の合う彼女とか完璧じゃね?」ってのはさ、もちろん趣味が合う方がいいけどもそれと恋愛が上手く行くかは結構別の問題だよ
(500)日のサマーはおれ・わたしの映画だ!と皆はいう。 - ココおれのじんちー!

なのだ。映画もそうだったけど、現実もうまくいかないもんだねぇ。