トラヴィスが自分の怒りを代行してくれる人に出会ったらどうしただろう?『ぼくのエリ 200歳の少女』

ぼくのエリ 200歳の少女』をレンタルDVDにて鑑賞。一応ミスリードになってるとはいえ、この邦題付けたヤツは監督の前でデコがすり切れるまで土下座するべし。

学校でいじめにあっている少年の元に、ひとりの少女が話しかけてくる。彼女の名はエリ。離婚したとおぼしき母親は仕事で忙しく、父親は父親の生活があり、子供との遊びは片手間であったことを知ってしまった彼は居場所がなく、同じく孤独な少女であるエリと心を通わせるようになる。ところが、彼女がやってきてから、町で連続殺人事件が発生して……というのがあらすじ。

この作品の概要を一言で説明するなら、「もし○○映画を『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』風に撮ったら?」である。しかも『ドリーム・キャッチャー』のように、この○○な部分がネタバレに相当してしまうから困り者*1

二作に共通するのは同じスウェーデンの映画というところだが、絵はがきのようなロングショットを多用し、セリフ少ない中、叙情性豊かに少年少女の心を切り取るという意味で、そのテイストはかなり酷似している。突拍子もないシーンが多々出て来るのだが、それをあえて見せない/見えにくくするというカメラワークを使うことでリアル感が増した。日常/生活の地続きにフィクショナルな世界があり、その視点違いによって、ジャンル映画をまるで新しいモノに生まれ変わらせるという意味においては、シャマランの『アンブレイカブル』や『サイン』と方法論が一緒だったりもする。

説明的なセリフが1nanoも出て来ないおかげで、多少付いて行けない部分もあるし、一番肝心な「彼女は一体何者?」というのが明確になるシーンでボカシが入ってしまうという万死に値する修正が加えられてて、外情報がないと分かりにくいかもしれないが、その実、映画は多面体な魅力があり、ジュブナイルものとしても、純愛映画としても、ミステリーとしても、ホラーとしても見れてしまうのが最大の強み。

個人的に深い感銘を受けたのは、主人公が鬱屈した怒りを溜め込んでいるという部分。

彼はイジメに遭っているという設定なのだが、その怒りをナイフと殺人事件のスクラップにぶつける。夜な夜なスクラップした殺人事件の記事を見てはナイフを手に取り、「この豚野郎」と言いながら庭先にある大木にそのナイフを突き立てる毎日――――そう!彼はトラヴィス*2なのである。

彼はエリという少女に出会うが、彼女は「仕返ししなさい」と彼を諭し、ついにいじめっ子に反撃する。そして、それと同時のこのエリという少女は、自分が出来ないことを大手を振って体現している存在なのだということを知ってしまうのだ。

物語の核心に触れてしまうので、抽象的に書くが、彼が選択するのは「自分が出来ないことをしている存在に付いて行くこと」であり、そこに純愛が加わることによって、その行動に説得力が増した。何故エリは主人公に声をかけたのか?それは同じ価値観、同じ鬱屈した怒りをためこんでいる存在だからだ。

というわけで、いろんな解釈が可能な作りになっているため、他にもいろんな見方をしている人もいるだろうが、個人的にはそういうボンクラ鬱屈怒り大爆発映画として観た。アメリカ版リメイクも公開されるので楽しみだ、あういぇ。

ぼくのエリ 200歳の少女 [DVD]

ぼくのエリ 200歳の少女 [DVD]

*1:とか言いながら、序盤でその様子は出て来てしまうし、ググるとすぐにそのキーワードが出て来るので、別に隠す必要もないんだろうけど

*2:タクシードライバー』の主人公。都会に蔓延るゴミを掃除したいと願う彼は、その鬱屈した怒りを爆発させ、ぽん引きを皆殺しにする