そもそも何時間の映画だったのか?『ザ・マスター』

『ザ・マスター』鑑賞。新潟ではあいかわらずのセカンド上映。ポール・トーマス・アンダーソン監督最新作。

今年に入ってはじめてスクリーンで二度観た映画となった。

二度観た理由としては作品の意図するものがよくわからなかったというのもあるが、それ以上にこの映画の持つ圧倒的な力に引きつけられたからだ。先に観た人の感想や、何も伝えようとしない予告編。さらにフィルモグラフィ上では『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の次ということである程度覚悟して行ったのだが、想像を遥かにこえた展開でぶったまげた。

冒頭。男がヤシの木によじ登り、ヤシの実を割ったと思ったら、その中によくわからない液体を注ぐ。それをぐいと飲み干したら、仲間とおぼしき男たちが砂で作った女体に向って腰を振り、さらに股に手をつっこむ。カットが変わると波打ち際で自慰行為に耽り、女体の隣で横になったと思ったら、いきなり船の中に入るカットになり、バルブのようなものを開けて、そこから流れでた液体を容器に移し、美味しそうにグビグビ飲み干す………

ヤシの木に入れたものや、バルブから出たものがどうやら酒であるということが分かるのはだいぶあとになってからであり、一事が万事この調子で説明は一切なく、シーンとシーンの間の飛躍もかなり大きい。回想が三回くらい入るものの、映画の流れとしては一直線。しかし、とにかく時間が飛んで飛んで飛びまくるので、全体的にはやはり不親切。4時間くらいある映画から見せ場と説明的なシーンをバッサバサ切りすて、哲学的な対話や緊張感のあるやりとりだけに絞って編集したようなそんな印象すら受ける。

そのつながりが感じられないようなコラージュ感覚のシーンだが、ひとつひとつはとてつもない緊張感に満ち満ちており、一秒も飽きさせない。すべてが印象的であり、主人公がキャベツ畑を走るだけでも映画的な快感を観るものに与えてくれる。これがわけわからないながらも二度観にいった要因である。

さて、いろいろな感想があがってきているが、ぼくはやはりポール・トーマス・アンダーソンの集大成的な作品だと感じた。そもそも彼の作風が劇的に変化したのは『パンチドランク・ラブ』からであり、何を考えてるのかよく分からない/つかみどころがない主人公というのはこれくらいから顕著になってきたことだ。それまでアルトマン的な群像劇を撮る人というイメージだったが『パンチドランク・ラブ』は『シャイニング』でラブストーリーを撮ってみたというくらいキューブリックのタッチになっていて、それも『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』に繋がっていくわけだが、今作のシンメトリックな構図や「セックスがしたいのになぜかできない!」という主人公は『時計じかけのオレンジ』や『アイズ・ワイド・シャット』を意識してるのかなと思ったりもした。

さらにこの作品は多くの人が言及しているように父と子の物語であり、そこに宗教的なものがからんでくるあたり、やはり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を踏襲した物語だといえる。主人公は間違いなくダニエル・プレインビューが救いを求めたらどうなるか?であり、ラスト付近でマスターと呼ばれる男と主人公がある種の対立をし「生まれ変わって、もう一度出会ったら、私たちは敵同士だ」みたいなことを言うが、それはそのまんま『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のことだったりもする。

というわけで、なんとも中途半端な感想になってしまったが、実は二回も観ておきながら、そもそもなんで主人公はセックスできる状況なのにしないのか?という部分が実はよくわかってないし、後半、あるキャラに呼び出されて行ったら、てめーなにしにきやがった的な目で見られるなど、どこからどこまでが主人公の妄想なのかも不明だ。映画の中でロールシャッハテストが印象的に出てくるが、それこそ、この映画がどう見えるか?というのは観た人によって異なる。そういうのを狙った作品であることは承知なのだが、分かりやすい映画が蔓延してるからこそ、観た後に延々考えさせられるこの作品は貴重。相当な覚悟をもって観ることをおすすめする。

関連エントリ

TOO DRUNK TO FUCK「ザ・マスター」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

『ザ・マスター』を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら