あくまでギャレス・エドワーズ“の”『GODZILLA ゴジラ』

GODZILLA ゴジラ』をBDで鑑賞。

日本の『ゴジラ』に忠実に描かれているというふれこみながら、間違った日本描写はあいかわらずで、集中して観ていたつもりだったが、置いてけぼりになるような設定もあり、芹沢博士は終始どこにいたのか?とか、アナログで爆破させるための爆弾はなんの意味があったのか?とか、あんなデッカイ怪獣の卵みたいなものがあったらgoogleでバレてるだろとか、気にかかることもしばしば。

しかし、そんな細かいことは抜きにして、映画の感想としては素直に驚いた。何に驚いたって監督ギャレス・エドワーズの作品になっていたからである。

メイキングで「ゴジラがでなければ好き勝手作れるさ、でもこれはゴジラ映画なんだ。プレッシャーがすごかったよ」と言っているが、監督もゴジラ映画として万人を満足させるのは無理だとわかったのか、オレに依頼したってのはそういうことだろ?と言わんばかりに開き直って自分の世界にゴジラを当てはめた、そんな印象を受ける。『ミッション:インポッシブル』をデ・パルマジョン・ウーが撮ったような感じといえばいいか。

超低予算で撮られた監督の前作『モンスターズ』のプロットは怪獣が暴れまわっているであろう街で主人公が右往左往をすることになるというものだったが、いってしまえばこれと今回の『ゴジラ』。基本は一緒である。そもそもその『モンスターズ』という映画自体、最後の最後まで怪獣の姿は出てこなかったわけで(低予算ということもあって)、同じようにここぞという場面でゴジラを登場させるも肝心なところをバッサリ切るなど、そこで培ったような大胆な構成が見られる。

ビッグバジェットのわりにセットの作り込みは甘く、前半は安っぽいドラマを見せられてるような気分になるが、もしかしたらそれは後半のゴジラ登場に使われているのではないか?とメイキングを観て思った。

まず監督は神の視点を極力使わず、ゴジラが暴れ回るシーンはすべて見た目からのカットにこだわった。ゴジラが暴れるとき、必ずそこには人間がいるというのを枷にして映像を作り上げており、その構図やカメラワークは妙に新鮮だ。しかも、その臨場感を表現するのに、グリーンバックもなるべく封印し、ロケにこだわって基本となる映像を撮り、そこにゴジラや壊される建物、爆破をCGで合成するという手法をとった。「今の技術だったらグリーンバックをじゃなくても作れるんだよ」とスタッフはメイキングにて語っていたが「そのかわり手間もかかるがな」と付け足していたので、その分の人件費もかかっているんだろう。

先日テレビで放送された『かぐや姫の物語』と真逆の感想になるが、それくらい手間がかかったのも納得の映像。怪獣の殴り合い、大破壊は圧倒的。ビルに戦闘機がつっこんだり、大津波が街を飲み込んだり、原発メルトダウンするなど、9.11と3.11を彷彿とさせる容赦ない描写に、広島についても言及など、初代ゴジラが何をいわんとしていたのかという部分にまで踏み込んでいるような気がした*1

惜しむらくは端からゴジラが救世主的な存在であり、恐怖の象徴ではなかったということだが、そもそもゴジラというのは日本でも作品によって立ち位置キャラクターが変わっているので、その延長線上にこの作品があるということなのだろう。もしかしたらゴジラを追っかけてきた人ほど、ちゃんとした見方ができているのかもしれない。そんなことも思った。とはいえ、これが賛否両論になってるのもすごくよくわかる。正確にいえば、見終わったあとになんて書いたらいいのか……という作品でもあった。

*1:とはいえ、この部分はムートーとかいう怪獣に託されているのだが