荒野のストレンジャー

イーストウッドの初監督作が『恐怖のメロディ』だと知ったとき、じつに意外な感じがした。ブルース・リーの初監督作が『ドラゴンへの道』だというのは理解できる。だがイーストウッドの場合は当時本気で悩んでいたのか、愛人がストーカーになっていくという映画が初監督作なのである。これは当時、芸人・ビートたけしとして活躍していた北野武が『その男、凶暴につき』を撮ったというくらいの違和感があり、少なくとも西部劇を撮るもんだと勝手に思い込んでたファンは少なくなかったのではないかと思われる。

『荒野のストレンジャー』はイーストウッドの監督二作目にあたる。西部劇はアメリカ文化が生んだひとつの結晶であり、アメリカ人には当たり前だったとしても、他の国から観ればカンフー映画や時代劇よろしく、異質でかっこいいものだったのだろう。ブルースをクラプトンとジミーペイジが評価しなおしたように、西部劇はイタリアでマカロニウエスタンとして再評価される。彼は西部劇を詩的でクールな世界として再評価したマカロニの出身であり、自身の手で西部劇を作り直すとなると、どんな作品になるか想像もつかなかった。これが観るまえの正直な意見だったが、これは良い意味で裏切られる。

発展途上ともいえるさびれた街にイーストウッドストレンジャー(よそ者)として現れる。彼に喧嘩を売るのはならず者三人。彼らをすばやい拳銃さばきで倒すストレンジャーだが、実はそのならず者こそ街の用心棒だった。翌日に以前街の用心棒として働いていた三人が出所してくるというが、彼らは街の財産を狙っていたので、保安官が刑務所送りにしてしまった。そんな彼らの報復を恐れた街の住民がならず者を雇っていたというわけだ。その用心棒をストレンジャーが殺してしまったために、住民はそのストレンジャーをやとうことになる……というのがストーリーだが、これは『七人の侍』と『用心棒』を足して二で割ったようなものだ。

そしてストレンジャーが流れ着くこの街だが、まず住民に団結力がない。そして建物などがまだ真新しいことが誇示される。その辺の描写からこの街はまだ歴史が浅いことをしめしているのだ。そしてこの街は“ある罪”を隠している————と、それは映画を観てからのお楽しみなのだが、イーストウッドはこの街をアメリカの縮図として描いたのではないだろうか?歴史は浅く、何かに怯え、罪を背負っている————

『荒野のストレンジャー』は“アメリカという国そのものを西部劇というアメリカ文化になぞらえて描いた作家映画”であり。その西部劇もある種正当ではない黒澤、レオーネ、ペキンパーに影響を受けたものにしていることから、そういった西部劇に対する反発からきたような作品とも言える。ジョン・ウエインがこの作品を観て「反米映画だ」といったのもそういう意図を汲み取ったからなのでは……というのはぼくの妄想であるが、正義や悪としてキャラクターが描かれないところもらしくて、報復に来るかつての用心棒も悪、住民も悪、女も悪、この街自体に復讐しに来たストレンジャーも「いい人」として描かれず、徹底して悪いヤツに描かれている。

ごちゃごちゃ書いたがとはいえ『荒野のストレンジャー』は西部劇というジャンルであることは間違いなく、単純にそういう風に観ても楽しめるので、映画として普通におもしろい。そこにスパイス程度にイーストウッドの思想が入っているので、作家映画としても最高である。全体的に満点をあげられるタイプの作品ではないが、個人的には限りなく満点に近い。