武士の一分

だいたいこの手の映画を観ると茶々を入れたくなるのが映画ファンというものだろう。しかもそれが木村拓哉主演となるとなおさらである。だが、『武士の一分』はそんな輩を寄せ付けない作品になった。藤沢周平原作&山田洋次の三作目。山田洋次監督も初めての時代劇から三本目である。

三部作の予定はなかったろうが、大ヒットしてアカデミー賞までとった『たそがれ清兵得』(以下『たそがれ』)は私にとってそこまでの傑作ではなかった。ミスキャストの大杉漣、鼻に付く山形弁、圧倒的なリアリティはさすがだが、映画としてじゃあ高みに登っているかと言われると疑問視してしまう。黒澤明が「ある侍の一日をリアルに撮ってみようと思ったら、侍が無報酬で野武士の襲撃から村人を守ったという話が文献で出て来たので、そっちの方が映画になるじゃないかと思って、そっちを撮ったんだ」と語ったが、まさにそれは正しい。映画でなければならない事を本能で分かっていた黒澤さんの正しい選択である。『たそがれ』は今までの時代劇だったらダントツでリアル。だが、それだけ。小市民の映画なら小津、成瀬には勝てないわけで、時代劇の中で再定義しても映画のカタルシスは得られないものである。さらにはラストが最悪で、スピルバーグよろしくというラストであった。あのラストに文句を言いたかったのは私だけじゃないはずである。

ところが『隠し剣鬼の爪』(以下『隠し剣』)になると、その山形弁や小市民っぷり、圧倒的なリアリティは幾分控えめになり、映画として、娯楽として、とても完成度の高いものとなった。山田洋次監督が復讐劇を撮るという意外性もさることながら、殺陣の撮り方が素晴らしく、ワンテイクで動きそのものを優雅に写しながらも、広々と捉えるカメラワークは香港映画ファンでも納得のいく仕上がり。『たそがれ』はリアリティを求める分、映画としてのかっこ良さが薄かった。ここは好き嫌いに分かれるのだろうが、殺陣だけで言えば、『隠し剣』の方がより“映画寄り”である。それだけでなく、隠し剣が何なんだ?という興味もあり、心晴れやかになるラストも爽快。復讐映画を観る時、主人公は死ぬか、復讐に意味はないというメッセージが欲しいものだが、スピルバーグと一緒で山田洋次にそこを求めてもしょうがない、それ故にあのラストのセリフは粋で重みがあった。

同じ藤沢周平原作で同じ監督が時代劇を撮り続ける。それは階段を一歩ずつ登るようだ。階段を一歩ずつ踏みしめるように監督はステップアップしていく。のっけからハッキリ言わせてもらうと『武士の一分』はようやく高みにたどり着く事の出来た力強い傑作だった。山田洋次監督の集大成と言っても過言ではないだろう。黒澤明の時代劇、小津安二郎成瀬巳喜男が描いて来た家族そのもの、そして監督自身の人生経験を経て、ここまでの作品になった事は一目瞭然である。

私は映画を観る時、基本的に情報は入れないようにしている。映画雑誌もまったく買わないし、ネットでも情報収集はしない、だからストーリーはおろか、監督が誰だか知らないときだってある。それ故『テキサスの5人の仲間』や『スティング』に感動できたのだろう。特に新作には疎く、『ブラック・ダリア』の監督がデパルマだと知ったのも映画が公開されて一ヶ月近く経ってからの事だった。『武士の一分』もそのようにして見た1本である。

『武士の一分』では木村拓哉が主人公を演じる。ストーリーがまったく分からない状態で映画を見たからなのだが、私が一番ビックリしたのは彼が盲目を演じるという事だった。それまで三流ミュージシャンだった武田鉄矢と個性派の桃井かおり、そして大スターである高倉健という見事なトライアングルを描いてみせた『幸福の黄色いハンカチ』を始め、あえてなべおさみを主演に据えた『吹けば飛ぶよな男だが』など、キャスティングには定評がある山田監督。藤沢時代劇三作品の中ではダントツの男前であるキムタク。『GO』もそうだが、男前がこういう話をやる時、どうも嘘くささを感じる。だが、そこであえて木村拓哉に目が見えないという演技をさせた監督のアイデアは抜群だった。目が見えない事という演技に集中させれば、他がマズくてもそこが際立つからである。

冒頭、木村拓哉はTVドラマの延長線上の演技を見せつける。見ている方も「やっぱりか…」となってしまうだろう。だが光を失ってからのキムタクの演技は圧巻だ。盲目が主人公だが、終始目が開いていて、眼力(めぢからとお読み下さい)を見せつけるように的確なカット割りを山田監督は示す。セリフにはややもたつきがあるし、説明的な部分が多かったが、目に集中させた演出は見事としか言いようがない。『武士の一分』でユニークだと思ったのは主人公が常に愚痴ばっかり言っている点である。前二作は男気溢れるヒーロー像な側面があったが、この作品でキムタクはかなり人間臭い役を演じている。ヒーローというタイトルのドラマにも出演した事がある男にここまでメンタル面で弱い人間を演じさせるのがおもしろかった。それと平行して優雅にカメラを写しワンテイクで見せ場を作っていったのもさすがだ、光と影を使い映像的に美しさを求めたのも大正解だっただろう。

そして彼の妻を演じる壇れいがとにかく素晴らしい。これは彼女が素晴らしいというよりも山田洋次監督のキャスティング眼の勝利。原節子高峰秀子と言った、古き良き時代の日本人女性を体現した美しさを持っている壇れいをそのまま「やまとなでしこ的」な女性にはめ込んだのがパーフェクト。『隠し剣』の松たか子も良い線いっていたが、『武士の一分』を見てしまうと松たか子の演技は霞んでしまうくらいだった。これは演技の質そのものよりも素材の時点でうまい食い物だったと言える。

そして、笹野高史である。木村拓哉に仕える役。木村拓哉と壇れい、そして笹野高史というトライアングルだったからこそこの空気感が出せたに違いない。私は小林稔侍という役者が嫌いで、彼の演技は常にやりすぎの感がある。今回の演技もその通りだった。山田洋次監督はそういう使い方を的確に分かっていて、オーバーアクトな小林稔侍と引き算の演技である笹野高史を見事にそれぞれ使い分けたのが評価すべき点。その手腕が一番に出たのが桃井かおりで彼女に“杉村春子的”な演技をさせた事も素晴らしい。『東京物語』や『晩菊』を見た人ならば一発で分かる“あの演技”である。盲目のキムタク、映像初出演の壇れい、そしてイヤなおばさんな桃井かおりなど、役者に意外性を持たせる事が山田洋次マジックで、その頂点が観られるのも嬉しい。

藩について細かく描いた事が邪魔臭かった前二作に比べ、その歴史的な背景を一切排除した『武士の一分』は正解。超がつくほどシンプルなストーリーは香港映画を思わせるほどパワフル。『隠し剣』では復讐の要素がちょい薄いが『武士の一分』は重厚でかなり残酷な復讐劇である。『男たちの挽歌』ばりの設定に燃えない男は居ないだろう。その事からストーリーが薄いという指摘もあるのだろうが、それが映画として間違っているかと言われるとそうではない。

そしてそのシンプルな復讐劇に小津安二郎の家族像をぶち込んだ事もすごかった。桃井かおりの演技が中心になるのだが、キムタクが盲目になってからのプロットはまんま『東京物語』や『生きる』『晩菊』である。この辺はさすが小津を敬愛する山田洋次といったところだろう。

その復讐劇であるが、主人公が盲目という設定が実にうまい。『座頭市物語』ならば、盲目でも凄腕である事はロウソクを切るシーンで表される。ある種日本では盲目の剣士=座頭市であり、木村拓哉が演じるとなると、それ相当のヒーロー像が予想される。だが『武士の一分』ではそれとはまったく真逆の演出を見せる。盲目という事は武士としては死んだも同然なわけで、真剣勝負など出来るわけがない。ここに映画ならではリアリティと嘘がある。これをうまく使ったクライマックスが素晴らしく、個人的には今まで観たアクションシーンの中でも5本の指に入る出来。『椿三十郎』の大ラスの決闘シーンに匹敵するハラハラ感。あんなに心臓が止まるかと思ったアクションシーンは無い。もちろんここでのカメラワークや役者の動き等言及したい点は多々あるが、これには触れる事が出来ないのが残念である。キムタクはかなり練習を積んだのだろう。中盤ワンテイクで見せる剣さばきには鳥肌が立った。完全にJAC出身の真田広之の上を行っている。

そしてさらに素晴らしいのが音楽である。尺八をメインにした調べは時代劇だからこそ完璧にマッチする。ラストに流れる曲はストリングスと相まって最高の余韻に浸らせてくれる事必至。これまた三部作の中で一番使い方が正しい。

ここまでかなり絶賛して来たが、やはり個人的にラストは好きじゃない。『隠し剣』でも思った事だが、復讐とは何の意味も成さない。映画の中では最高のカタルシスが得られるだろうが、やはり現実に復讐行為があってはならない。だが、これはあくまで好き嫌いの話であって、間違った演出ではない。そういうラストである。スピルバーグが『A.I.』や『マイノリティ・リポート』『プライベート・ライアン』『ターミナル』で見せたのは「間違ったラスト」だが、この『武士の一分』はそれとはまったく違う終わり方である。だからラストが嫌いでもそこは減点対象にはならない。

ストーリーを知らずに見たからかなり甘いかもしれないが、『用心棒』や『沓掛時次郎』『座頭市』『子連れ狼』『丹下左膳』などの名作郡と並べても遜色無い傑作な気がする。山田洋次さすがの作品。