立食師列伝

立喰師列伝 通常版 [DVD]

立喰師列伝 通常版 [DVD]

イノセンス』で唯一出来なかった「“言葉”と“観念的な動き”だけで人間を描く」事に成功した作品。

かつて“立喰師”なる伝説の職業があった。今でこそその名前は聞かなくなったが、戦後から昭和の高度成長期を越えて活躍した立ち食いのプロである。テキ屋が活躍した戦後の混乱期、時を同じくして“立喰師”は生まれた。“立喰師”とはテキ屋のように言葉を巧みに操り、店の主人を言いくるめて、無銭飲食をする職業の事である。言い換えれば詐欺師と同じなのだが、その手法は芸術の域に達しており、食い逃げとは違う意味合いを持つ。今ではファーストフードという言葉が当たり前のようにあるが、当時の日本では立ち食いそばがそれにあたる。“さっと食って、さっと出る”という、“味わう”事よりも“食べる”事を優先させる様な店で、巧みな話術を使い、“立喰師”達は戦後の混乱を乗り切った。時代は東京オリンピック、高度経済成長を越え、立ち食い文化もそれ同様に変化していく。ファーストフード、牛丼屋、カレー屋。さっと食べて、さっと出るというところだけは変わらないが、大量の客をさばき回転率を上げ、利益を捻出する事に念頭を置いている。そして立喰師達もそんな食文化と共に変わっていくのだが…

もちろんこれは大ウソである。そんな職業ある訳ないし、仮にあったとしても犯罪者もいいとこ。今では警察に捕まるのがオチだろう。だが、押井守はこれを大真面目に日本の戦後史と絡めて描いて行く。いわゆるフェイクドキュメンタリーだ。それだけでなくガイナックスの『帰ってきたウルトラマン』やブルースリー村上春樹等の小ネタも登場、押井ファンならば誰もが分かる様なネタも隠されているのだろうが、私はそこまでマニアじゃないので、ここでは触れないでおく(というか、触れられない)

言えば、押井守の本領が発揮された作品だ。『アヴァロン』で見せた実写とアニメの境目を無くす映像をメインに、『ミニパト』の「CGを使ってるのにあえて安っぽい感じを目指す」というパタパタアニメを融合。マシンガンの如く饒舌なナレーションで“立喰師”という架空の職業をあたかもホントにあったかのように演出するというのも『ミニパト』に通じる物がある。自分の作品に幾度となく登場させて来た脇役キャラ“立喰師”で1つの作品を作り、さらに役者には自分の作品に携わって来たスタッフや監督を起用している事から、ある種、自伝的な作品にもなっている。

マシンガンのようなナレーションに沿って進むため、NHKのドキュメンタリーを観ている様なリアリティがある。そのナレーションはかなり難しい言葉が散りばめられてるため、何を言ってるのか分からない時もあるだろう。だが、その内容はかなりバカバカしく、それがギャグである事に気づいた人は何人居るだろうか?この作品はコメディであり、バカ映画である。人を笑わそうという本質をごまかすために衒学的な言葉をバラまいていく押井演出は、『ミニパト』よりも冴えており、正直、かなり笑わせてもらった。ただの食い逃げ映画にふさわしくない派手な音楽も完全にお笑いだ。

そのバカさ加減とは裏腹に戦後の日本史は有名なものを取り上げており、1時間40分で『フォレスト・ガンプ』の様に立喰師達は戦後の日本を駆け抜け、そして去って行く。これだけでもかなり見応えがあった。これは押井守が観て来た日本の姿であり、押井守はその日本に郷愁感がある。それが証拠にこの作品は70年代でストップしており、それをただ見せただけでは映画にならない。そこで戦後の日本史をより分かりやすく描くために選ばれたのが立喰師である。

私がこの映画で驚いたのは人間の身体をバラバラにしてしまった演出である。人間の観念を具体化する事に勤めて来た押井作品の中で、『立喰師列伝』は一番人間の身体が象徴的に動いている。それまでの押井作品は機械的な動きだったりしたものの(実際脳以外は機械という作品もあった)しっかりと歩き、銃を撃ち、犬を抱き、車を運転する。だが『立喰師列伝』は『サウスパーク』の紙のアニメのように、手足はプラプラし、顔はころころと一枚一枚変わるだけ。しかしそこに存在しているのは人間そのものなのである。

多面体な魅力を持ち、押井守のすべてが詰め込められた最高傑作『イノセンス』で描けなかった事、それは「人類の存在を言葉と象徴だけで描く」だった。人間というのは言葉によって存在し、言葉によって自分を認識する。情緒や感情はあくまで人間としての現象であり、人類そのものではない。『攻殻機動隊』で素子は『2001年宇宙の旅』のボーマンのように新しい生命になった。機械と融合し、ネットの世界に生き、生物学的ではない進化を遂げる。『イノセンス』はその先の事を描いている。進化はした。じゃあ人間と呼べないかもしれない進化をした時、他者とはどのように付き合えばいいのか?これが『イノセンス』での問いかけだ。

イノセンス』における人間の表現は、情緒と感情の切除に留まっており、命というものは犬にすり替えられていた。自分の存在は記憶と言葉、そして命は犬、身体は機械や人形、自分の身体を感じる時、それは犬や人形という代替物を見る時。だがそれに付きまとうのは孤独である。記憶や言葉だけでも人間は存在出来る。だがそれは同時に孤独を感じる事でもある。人間は1人では生きて行けない。だが孤独を満たすという意味での家族、他者、これが満たせれば人形でも犬でも構わない、それが新しい家族のあり方であり、人間の進化なのだ。これが『イノセンス』のメッセージである。

だがそれを描くのに押井守は「機械化された体」から一歩踏み込む事は出来なかった。身体が機械的な動きでも言葉によって人間を描くという行為。これに果敢に挑んだのが『立喰師列伝』なのだ。

立喰師列伝』は大真面目なフェイクドキュメンタリーだが、ある種のコメディなので、そういうデフォルメされたキャラを出しても違和感がない。押井守がこの作品でとった手法は、前回『イノセンス』で描けなかった「人間を言葉と象徴だけで描く」という事。それをコメディという形でごまかしてるに過ぎないのだ。実際『立喰師列伝』は人間が歩かない。ただ前に移動しているだけ、さらに喋る時に口は動かない、泣く時も目から水が溢れるだけ、そこに感情や情緒は皆無。さらに“食べる”という行為が重要な作品なのに、『立喰師列伝』は食べるシーンでさえも象徴的に撮られている(箸が上下に動くだけとか、そばをすする音だけだったりとか)だが、山寺宏一のナレーション(言葉)によって、彼らは存在し、彼らは食べている。こっちが持ってる想像力を膨らまし、観念を徐々に具体化させていく演出はこの作品が初めてだろう。現に紙のようにキャラはペラペラしているのに彼らには立喰師というモノに見え、そこに言葉が被さる事でそれぞれのバックグラウンドや映画のキャラとして成り立ち、存在している。

ここまで絶賛して来たが、個人的に腑に落ちない部分や納得いかない部分もある。まず立喰師の手法だ。この作品はどのように立喰師達が無銭飲食するのか?という部分がまったく描かれていない。もちろんこの作品は立喰師達を研究して来た架空の人の語りなので、その手法は描かれなくて当然なのだが(当事者じゃないので)泣き落としとか、説教とか、いろんな技が出て来てるのに、どういう風にするのかという行動が描かれていない。ここは映画的な興奮を加えるために描いて欲しかった。日本史を描くための象徴として立喰師は正しいが、タイトルが『立喰師列伝』という以上、これは立喰師の映画なのだ。戦後の日本史を描くのはいいが、それに寄ってしまうとただの「日本史を観ろ」という押し付けになってしまう。

そして、もう1つは長回しの量である。動きを排除するための演出なのにもかかわらず、ほんとに画面が動かない所が多々あり、それが絵としておもしろくないため、退屈してしまう部分もあった。タルコフスキーはポエムにのせて40秒近く映像を静止させる。押井守も同じように大量の語りで画面を長回しさせる。この両者の決定的な違いは絵であり、タルコフスキーは絵としてかなり気持ちがいいので、映像が止まってもまったく退屈しないが、『立喰師列伝』は本の表紙だったり、ビルだったりして、映像としておもしろくないから、退屈してしまう。その量をもっと少なくしたら、スピーディーに観れた気がする。

個人的にこの作品はとても面白い部分と退屈な部分の差が激しく。それが7:3くらいの割合だったため、押井守の中ではズバ抜けた傑作とは言えない。だが気になったのはそれくらいでやっぱり1時間40分早かったし、笑ったし、おもしろかったという印象があったのは事実。押井守ファンのためのリトマス試験紙などと言われているが、私は単純に作品として好きである。

注・『イノセンス』に関する解釈はDVD収録の“押井守×鈴木敏夫対談”より引用させていただきました。ただ『立喰師列伝』に関する解釈は私の独自の物であり、根拠はありません。ご了承ください。