『崖の上のポニョ』を観て「人間」の「存在」について想う

崖の上のポニョ』という作品を観て思ったのだが、宮崎駿という作家の作品には普通の人間の枠に当てはまらないキャラクターが右往左往する話が多い。

もののけ』のサンは男でも女でもない、山犬になりたいと願い、人間になりたくないのに人間として生まれてしまった悲しい少女である。

紅の豚』は魔法によって豚にされてしまったポルコという男の生き様を描いた作品だ。もちろんこれは宮崎駿の事で、本人は照れ隠しのために豚にした。

ハウルの動く城』のソフィはいきなり魔女に90歳のババアにされてしまう。

だがこれらのキャラクターはもっとも人間らしい行動や人間を意識する。それどころか人間そのものを象徴してるようなキャラになってる。

紅の豚』は外見は豚だ、でも思想、セリフは人間そのものであり、人間よりも人間を感じさせる。しかもそんじょそこらの人間より遥かにカッコいい。

ハウルの動く城』のソフィは見た目こそ90のババアだが、ハウルに恋をする事で、どんどん若返って行く。魔法は溶けてないのだが、ソフィの中にあるもの、ソフィの精神状態が、時に女、時に母、時に妻になり、ハウルという他者に対して、90のババアがもっとも人間らしくハウルを包み込んで行く。

崖の上のポニョ』は魚の子として生まれたポニョが人間の男の子に出会う事で人間になりたいと願う話だ。これまた上記と同じように人間ではないのに、もっとも人間的なキャラクターとして描かれて行く。熱いスープを飲んでは感動し、ハムを食べては感動し、すごくイノセンスな物の象徴として動いている。

これらを観ると人間って何なんだろうなぁ?と思ってしまう。一体何が人間なのか?人間っていう現象ってなんなんだろうと、

一般的に言われてる人間とはかけ離れたキャラクターに人間らしさを感じるというのは不思議な事ではないだろうか。逆に言えば、今の人間は人間らしく生きてないとも言える。

よくエビちゃんとか西山茉希のポスターを観ると、全部のポスターの顔が同じに見えてしまって、それはただの錯覚なのかなぁと思ってると、実はTVに出ても、ポスターの中のものと変わらないのに気付いて驚いた。そして、世の中の女の子はそれを見て、憧れ、好感を持っているわけだ。それは人間らしいというものからかけ離れたものなのだが、そういう人間らしくないものに、今の人はなりたがってるのかもしれない。

今村昌平の『復讐するは我にあり』という映画があるが、あれに出て来る人間達は感情の赴くままに、それぞれの人間が人間らしく動き、生きている。セックスがしたくなったから、セックスを動物のようにして(しかもそれが無茶苦茶生々しい)汗をかき、顔に脂をにじませながら歩き、顔面の形が変わるほど怒り、殺意を抱いたら、そのまんま後先考えずに殺してしまうという、これこそが人間なんだよ!という風に描いている。

昨今の日本映画にはそう言ったものがまったく無い気がする。んで、それは時代がそういう流れになって来ている事の証明でもある。人間らしいキャラクターは消え、ヘタすればロボットのような、薄っぺらい表情のものにみんな人間を感じてるんだろう。

だから押井守は『イノセンス』のような作品を撮り、宮崎駿は『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』を撮る気がするのだ。

両者に共通する作品のテーマは人間という存在といのちとは何か?と他者との付き合いである。

自分がもってる身体というのは一体何なんだろう。それと人間という現象は別なのだろうか。宮崎駿の映画のように90のババアだろうが、魚の子だろうが、豚だろうが、それはあくまで生物学的に人間じゃないだけであって、その頭の中にあるものや行動は人間そのものである。正直、人間というのは、いや、自分の存在というのは記憶や言葉でのみ形成されてるのではないだろうか。もっと言えば『攻殻機動隊』のように記憶すらねつ造されるのであれば、自分の存在はホントに言葉でしかないのかもしれない。

自分が生きてる中で、何かを失った時、初めてそれを「存在」として思う事がある。例えば、自分が死ぬ事はまったく想像しないし、出来ないが、誰か身近な人間が死んだとき、初めて、いのちというものの存在を確かめる事が出来る。ニュースで誰かが事故って死んでもなんとも思わないが、自分の飼ってるペットが死んでしまうと、そこにいのちを感じる。それは人間よりも動物の方に命や存在を感じている事の証明だ(これはオレのみかもしれないが)

BUMP OF CHICKENが『supernova』の中で『鼻が詰まったりすると解るんだ 今まで呼吸をしてきた事』と歌ってるが、まさにそれだ。自分という存在が言葉や記憶で形成されてると思いがちだが、自分には身体があり、それも含めて、ああ人間なんだよなぁと思い出させてくれる。でも自分の身体の何かが失われないのならば、やはり人間っていう存在は言葉でのみ形成出来るのではないか。

ブログを読んでるとふと思う事がある。例えば、ブログに書かれてるものはただの文章の羅列でしかない。だが、そこに人間性やその人の性格が見えてしまうのは、人間ってやっぱり言葉から生まれてるもんなんだなぁという事の表れだと思う。

実際、オフ会で初めてあったはずなのに、初めて会った気がしないというのは、それぞれメールなどのやりとりやその他、映画に関する文章で、どういう人なのかというのが分かってるからである。

だから人間の身体ってのは、全然人間を象徴するもんにはならないんだと思った。すっげぇ美人だとしても、それはその人の人間を表すもんではない。もちろんブサイクでもデブでも同様である。それは身体の事だけでなくて、着てる服、髪型も同様だ。

イノセンス』という映画の中で草薙素子が人形にハッキングして、登場するが、見た目こそ、ただの人形なのに、そこにいるのは草薙素子というキャラクターである。これはすごく不思議というか、やっぱり人間っていう存在は身体ではなく、言葉なんだなぁと思う。

そもそも人間っていう存在自体なんなのだろう。何やら哲学者みたいな事を言ってしまったし、私が今言ったような事は先人の偉い人がいろんなところで言ってるんだろうが、こんな事を何故か『ポニョ』を観て思ってしまった。