あらゆる色の生命をイコールで繋ぐ

夜に殺されに行ったのだが、仕事で一緒になった人といろんな話をしたら、これがどうも、私とまったく同じ感性、趣味嗜好、思想の持ち主で、心底驚いてしまった。恐らくオタク気質なんだろうが(今のオタクと元祖オタクでは全然違うのでそこ勘違いしないように)これほどまでに物事を深く考えてるのかと思ったし、小説でも映画でもなかなか鋭い分析をしていて、「おーさすが!」って感じで、ホントに驚いてしまった。なぜならその人はそういう事とは無縁な人だと勝手に思ったからである。なので、かなり深い話をした。というか、ここまで人と深く、幅の広い話をしたのは久しぶりかもしれない。基本的に私が話してる事というのは普通の人(何をもってして普通なのかは分からんのだが)にはなかなか受け入れられず、とある友人からは「てめーみたいなヤツの相手をするのめんどくせー、基本そんな事を考えだしたらキリがない」みたいな事をミクシィ日記のコメントにかかれたりもしたが、私が一方的に話すだけで、基本的にはあまり賛同してもらえない事の方が多い。ところが、その人とは、その事でまともな会話が出来たので驚く。映画から小説の事や生と死、神についての存在論や神は奇跡を起こせるのになんで悪魔は何も起こせないんだとか、まぁ、いろんな話をしたが、最終的に行き着いたのは“人間って悪だよね”とか“人間って怖いよね”とか“なんで人間って、あんなに長生きするんだろうね”とか“なんで人間って生きてるんだろうね”とか“なんで人間ってこんなに違うんだろうね”とか、そんな話までした。それはよく妹と話してる事なんだけど、堂本光一が良く「水って不思議やんなぁ」とかTVで言ってて、「何言ってるんだ?」みたいな目で見られているが、非常に彼の気持ちがオレには分かる。

最近、死について考える事が多くなってきたが(死にたいわけじゃねぇぞ、オレは飯喰いたいし、まだまだセックスもしたいからな)私はマスコミなんかで“早すぎる死”って出ると「早すぎる死」って何?って思ってしまう。例えば松田優作は41歳で亡くなってて、それで早すぎる死とか言われているが、松田優作は激しく燃えるロウソクのように生きたのかもしれない。んで、役者として『ブラックレイン』がもしかしたらピークだったかもしれない。次の年にはどん底まで落ちて、役者として活動してないかもしれない。だから早すぎる死ってのは、世間的な倫理にねじ込んでるだけだと思う。だからこの間小学生がパンを早食いして喉に詰まらせて死んだが、それは「パンを早く食べたい!」という誰にも負けない強い想いから招いた死であり、ある意味でその小学生は人生を全うしたと言えるのだ。だからそれも早すぎる死ではない。もしかしたら運命だったのかもしれない。

私は「命を大事」にとか、「死が尊い」とかいう概念はまったく持ってない。なぜならそれは生物学的に命が終わる事とは違う、もっと別なものになってるからで、人間が死ぬという事に関してホントに神格化する必要など無いと思っている。だから 家族の死は実在論として悲しいが、実は死そのものに対して悲しいとは思わない。生も同じだ。誰しもに必ず訪れる事だし、死んだら人間は同じになる。実在論としての『いのち』と生物学的な『いのち』はまるで違うものであり、後者の『いのち』を語るには酸素があって、心臓が鼓動して、血液が運ばれて、、、とややこしい事になる。もちろん『死』もそうだ。それは藍坊主が『ハローグッバイ』で歌った『木枯らしは木枯らしで、アリはアリで、ネコはネコ、けどぼくは、いまだに、ぼくになれない』とフレーズにもある。「アリ」は自分が思ってる「アリ」として存在しているが、それとは別に生物学上の「アリ」も存在するからで、生物学的な「ぼく」と実在論としての「ぼく」はまるで違うものなのだ(それを哲学用語で観念実在論というらしい。おもしろそうだから勉強してみようかなぁ)

んで、人間ってのはそういう価値観の違いや倫理観の中で自問自答して生きていて、生と死があるのだが。面白い事に人間ってのは細胞レベルで考えると、配列の違いだけで、元は全部同じである。水も木も空気もゴミも空も人間も全部、配列の違った細胞で、それは実は全部繋がっている。同じはずのものが配列と組み合わせが違うだけで、まったく別なものになり、その繋がりの中で朝が来て、風が来て、木々が揺れて、雨が降って、川になって、海に流れて、生命になって、やがて夜が来て、その中に人間は生きている。価値観の違いも、生き物も、生と死も、朝も夜も、日々も、全部物質は一緒で、=で繋がっている。日々が終わろうとも死が訪れようとも、人が人を殺そうとも、それはすべて繋がっている。だから人間は違ったとしても、根本は一緒だし、当たり前に生きている事をまずは感謝しなければならないし、その繋がりをもっと大切にしなければならない。

ACIDMANの曲で『イコール』という曲がある。

歌詞はこちらで読んでいただくとして、この曲はまさに今私が書いた事を5分間で表現している奇跡的な楽曲である。ACIDMANの曲は難解とされているが、実は基本的に自然の摂理について、生命について唄ってる歌が多いので、今みたいな事を考えれば、自然とアレンジも言葉もすっと水のように隅々にしみ込んでいく。特に『イコール』はその中でも最高峰。静かに朝が来るように始まり、ギターソロとも違う独特のベースラインがあり、ブレイクがあり、裏打ちがあり、それらを激しいディストーションで包み込んでいく。まるでそれは生命が、細胞が蠢いてるような、まさに生きている事を感じさせるようなアレンジメントである。

こういう事を歌うアーティストはなかなかいないのだが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONは『ノーネーム』という曲で、“冬や春などの季節、朝と夜は繋がって名前が付いてるのに人間は繋がりあえたとしても、その繋がりには星座のような名前がないじゃない、”と歌っていて、感情の方向は一緒なのだが、ACIDMANの『イコール』はただ1つだけ違っていて“価値観が違ったとしても、何もかもが違ったとしても、物質のレベルでは=で繋がってる”という、名前は付かないけど。それでも繋がってるよと歌っているところがおもしろい。これは作り手の考え方の違いだし、それはそれで正しいと思えるので、それぞれにおもしろいし、特にACIDMANはそれを3人だけで奏でて表現しているので、やっぱりロックってすげーなぁって思う。

っていうような事も長くなったが話した。いや、『イコール』や『ハローグッバイ』は持ち出してないんだけどね。それにまつわる話なんかもした。最終的にその人に言われたのは「あんたさぁ、そんなに人間の底辺ばっかり知ってるんだったら、逆に希望を持って生きたら?」だった。あんたに言われたくないよ!(笑)

いろんな事を考えすぎたせいか、仕事でミスしますた。