「セックスしたい」事と「愛してる」をすり替えてるような映画。


8日朝
10時に『トワイライト 初恋』鑑賞。

人間とヴァンパイアの禁断のファースト・ラブと銘打たれてるが、何故これをメインに打ち出したのだろう。相手が吸血鬼である事は言わない方がよかったのではないだろうか。この時点で、主人公の女に近づく得体の知れない男は吸血鬼って分かってるんだから、映画を観てても全然緊張感がない。主人公同様に、この青白い男は一体何者なのだろう?という興味を持たせた方がよかったんじゃないか?「はいはい、どーせ吸血鬼なんでしょ?」というのが拭えず、それが延々続くのは戦略ミスだと思う。まぁ、仕方ないんだろうけど。

それはいいとしても、設定が変だ。これはぼくが間違った見方をしてしまってるのかもしれないが、『トワイライト』はプラトニックな純愛の映画ではないきがする。少なくともぼくのような人間にとって『トワイライト』は純愛には思えない。

『トワイライト』の吸血鬼は吸血鬼のくせに人間の血を吸わないで生きているという設定である。『死霊のえじき』のリメイクである『デイ・オブ・ザ・デッド』でも、人間を喰わないゾンビが出て来て、そいつはベジタリアンだったからというユニークな設定があったが、まさに『トワイライト』も吸血鬼の中のベジタリアンというわけわかんないキャラで、みんなが思ってるような吸血鬼ではないのだ。

「それじゃあ、禁断のファースト・ラブじゃないじゃん!」と思った方、なんと、ここからがさらに不可解で、その吸血鬼は主人公の血は求めてしまう。「君はドラッグのようなもんなんだ」と言うセリフがあるが、他の人の血は吸いたくないのに、主人公の血は吸いたくなるのである。吸いたいんだけど、吸ったら主人公は死んでしまうので、殺したくないから、吸うのを我慢しているのだ。

『トワイライト』をぼくなりに要約するとこうだ(以下ネタバレ)。

ただ単に血を吸わなかった吸血鬼が、血を吸いたいという欲求が芽生えてしまった、しかもその娘の血を吸ってしまったら、これから先、人間に対して、血を吸いたいという欲求が無くなってしまうかもしれない。その刺激が無くなってしまったら、これから先何百年も続くであろう高校生活がつまらないものになってしまい、生きていく意味がない、でも不老不死だから、死ねない。それだったら、相手を殺さずに血を吸いたいという事を渇望して生きていった方が何倍もマシだ。という話だと思う。それが証拠に映画のラストで、主人公は吸血鬼になる事を望むが、相手の吸血鬼はそれを拒否する。吸血鬼になってしまうと、血が吸いたいという欲求が消え、何の魅力も無くなってしまうのを恐れてるような終わり方である。他にも主人公は吸血鬼に対して愛してる事をかなりアピールするが、吸血鬼の方はかなり冷めていると言った印象もある。


ネタバレ終わり。


もちろんこういう事を書くと、反発する人も多々居るだろうが、この感じは女性とセックスをする時の感じにも似ている。セックスをしてる時というのは、相手の事を愛しているのか、それともセックスがしたいだけなのか、どっちが先行してるのか分からない時がある。みうらじゅんが『アイデン&ティティ』で問いかけた事だが、これにはすごくぼくも共感する。セックスしたいという欲求と愛してるという事を錯覚するというか、愛してるからセックスするのか、セックスしたいから愛しているのか、というのは、よく分からない。『失楽園』や『愛の流刑地』なんかを観ると、「あんたら身体の相性が良いっていう事と愛してるって事を錯覚してない?」と感じる事もあったりするが、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の主人公達も愛してるという事と、身体を求める事の違いをハッキリと分けてたりして、んで、分けてるけども、それも人間として純粋な事なんだと肯定してるような気になったり、ならなかったり…うーん。

だから『トワイライト』の吸血鬼も愛してる事と相手の血を渇望する事を錯覚してるというか、そういう印象が残った。もちろんこれはぼくのような歪んだ思想の人間の意見なんだと思うが。

8日昼
マンガ本を買いあさる。

8日夜
1時に前の職場の人に呼び出され、古町まで飲みに行った。久しぶりにショットバー的なところで飲んだ。ぼくには似合わない雰囲気だ。

朝の5時まで飲む。

9日昼
ブックオフに行き、マンガを買う。そして、その後、アテーナにて1万円分の棚を購入した。DVDとマンガと本がとんでもない事になってきたので、ついに、本棚を増築する事に決めたのだ。マンガ本をひとまとめにしたり、本棚を組み立てたりしたら、こんな時間である。あういぇ。