グラン・トリノ


26日夜
鴨川ホルモー』を読んだ。万城目学のおもしろい文体が後半になるにつれ加速度を増し、さらにホルモーという不可思議な競技をとても分かりやすく、スピーディーに読ませる技術が飛び抜け。何故映画版はこちらのクライマックスにしなかったのか?あきらかにこちらの方がとても映画的だし、盛り上がるはずだ。あとこれを読むと映画版は「結局人間って良い人」が鼻に付く。原作は主人公にとっての敵が徹底的に嫌なヤツとして描かれ、「価値観の違う人間は結局のところ分かり合う事が出来ない」という結論に至ってて好きだ。普通なら「同じ人間として仲良くやろうよ」という事を無理矢理描こうとするのだが、万城目学はそういう偽善的な感情を表に出さないから共感する。

27日朝
9時15分より『グラン・トリノ』鑑賞。

いや、すごい!やっと今年に入ってから心の底から満足出来る傑作に出会った。『レッド・クリフ PartII』も『ウォッチメン』もよかったが『グラン・トリノ』の前では一歩引かざるを得ない、低予算でスターはイーストウッドだけ、派手な見せ場もないのに、ここまで魂揺さぶる作品をイーストウッドがこの年齢になって作り上げた事が信じられない。

ぼくは「この世に死んでいい人間なんて居ない」とか「命は尊いもんだ」と平気で宣うヤツは信用出来ない。もしこの世界に生きてる人が全員そういう事を心の底から思っていれば、戦争も起きないはずだし、犯罪だってとっくに無くなってるはず。人間は自分勝手で他者は他者であり、他人の為に心底何かをしようとはあまり思う事などないのではないだろうか。

ハッキリ言ってこの世には死んでいい人間で溢れている。ぼくは偏見の塊だし、とても差別をする人間なので、チャラチャラしてコンビニの前でギャーギャー騒いでる若者は片っ端から撃ち殺してやりたくなるくらいうっとうしいし、ピーピー泣きわめく子供を見ると殺意が芽生えるし、態度のでかい老人には後ろから蹴りを入れたくなるし、偉そうにしてる警官や政治家や権力にどっぷり浸かったクソ野郎は心の底から死ねばいいと思っている。何の理由もなく「誰でもよかったから」と言って弱い者を殺すヤツも心底死ねば良いし、女子供を痛めつけるようなヤツも、レイプするヤツも、タバコのポイ捨てをするヤツも、みんなみんな死ねば良いと思う。

ただ、そういうヤツらをホントに殺してしまったらどうなる?確かに世の中には死んでもいい人間で溢れている。だが、ホントに殺してしまったら?どんなに死んでいいヤツで溢れてても個人的な感情で殺人は正当化出来ないだろう。

グラン・トリノ』はこの問題に深く深く踏み込んだ一大傑作だ。あまりにすごすぎて、これ以降の復讐映画の定義が変わってしまうかもしれない。『アヒルと鴨のコインロッカー』でも、どんな場合でも殺人は正当化出来ないのか?という問題に踏み込んでたし、殺人の正当化という意味では、日本にも『みな殺しの霊歌』なんていう傑作があるが、もっと言えばイーストウッド自身も『ミリオンダラー・ベイビー』でそれを観客に突きつけた。だが『グラン・トリノ』では「殺していいヤツが居たとしても、殺してはならない」という答えを我々に突きつける。しかも誰もが納得する方法で。

そのラストのために用意された伏線が「朝鮮戦争に参加」「家族にも心を開かない」「誰にでも差別的な発言をする」「隣人の男の子を立派な男にする」「白人しか居なくなってしまった元高級住宅街」「息子が日本車のセールスマン」「72年型グラン・トリノ」「27歳の童貞の神父」であり、クローズアップを多用しないカメラも、簡略化された演出も、画角のずれた構図も、全部が全部完璧に機能しているとしか思えない。

ぼくが『グラン・トリノ』を観て一番最初に思ったのが、『わらの犬』と『生きる』だ。『わらの犬』では、「平和主義者や暴力反対は偽善だ!人が人を殺す事は実はごくごく自然な事なんだ!」というとてつもないメッセージを放つ作品で、『生きる』は「自分が死ぬと分かったら、果たして、他者の為に何が出来るか?」という誰もが一度考える事を提示した作品。そして『グラン・トリノ』はさらにここから別な答えを提示し、観客を見事に納得させたのだ。

もう、多くは語るまい、とにかく必見だ。今年のダントツベスト1になるだろう。あ、まだ『スラムドッグ$ミリオネア』も『ザ・レスラー』も観てねぇや。

27日昼
今日は酒を飲むので、この辺であういぇ。