『地下鉄のザジ』が蘇る!

9月26日にルイ・マルの『地下鉄のザジ』がニュープリント版となって劇場公開される。

地下鉄のザジ [DVD]

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よくニュープリント版という言葉を聞くが、ぼくにとっては先立って公開した『ゴッドファーザー』や『ブレードランナー』よりも『地下鉄のザジ』の方が重要なので、非常に楽しみなのだが、新潟じゃやらないんだろう――――ファック!

地下鉄のザジ』に関して言うと、id:doyさんが書いたこの一言に完全同意だ。

良さが分からない人も多いと思うけど、好きな人には宝物になる1本。
地下鉄のザジ-THE KAWASAKI CHAINSAW MASSACRE

勝手にしやがれ』が公開されてから、ヌーベルバーグは決定的な物となった。ヌーベルバーグとは既存の映画製作に反発した若者達が起こした運動で、世界的に衝撃を与えた出来事である。セット撮影が当たり前だったあの時代にヌーベルバーグは外で撮る事の重要性を世界に知らしめた。それだけでなく、編集も撮影も映画撮影の伝統からすれば、常識はずれのものばかり、連続するシーンから、意図的に数コマ抜くジャンプカット、『羅生門』のようなレンズフレア、手持ちカメラ、同時録音、ヘタすれば素人仕事だが、これで映画は自由になった。さらにヌーベルバーグの映画の主人公は今までの映画の主人公とはまったく違い、チンピラや犯罪者が多かった。だが、彼らは誰しもが持ってる人間の感情を全面に押し出し、こちら側に共感させる事をメインに演出した。予定調和な人生は送らず、恋に悩み、生き方に悩んでいた。当時の若者はこういうやるせない主人公達にいたく共感したのである。ヌーベルバーグに影響を受けたアメリカンニューシネマだが、ヌーベルバーグのアメリカ版で、ハッキリ言ってまったくやってる事は変わらない、それほどヌーベルバーグは世界の映画監督達に勇気を与えた。

そんなヌーベルバーグの中で、もっとも早くから円熟し、洗練された映画を作ってた監督がいる、それがルイ・マルだ。彼が25歳の時に撮った『死刑台のエレベーター』は世界の映画ファンの度肝を抜いた。『勝手にしやがれ』よりも2年早くルイ・マルは既成のフランス映画に挑戦状を叩き付けていた。ロケ撮影なのは当然なのだが、夕方から次の日の朝方にかけての話なので、全編が夜の映像になっていて、パリとは思えない艶がある演出をした。それだけでなく、マイルス・デイビスのジャズを使ったのも画期的だった。ムードある夜の音楽のジャズを使った事で映像と音が見事にシンクロし、類い稀なる相乗効果を生んでいる。自分勝手で完全犯罪を企む主人公には大凡感情移入出来ないが、その演出手腕により、知らず知らず主人公達に同化し、ハラハラし、手に汗握った。このワンパンチはヌーベルバーグの旗揚げになった事は言うまでもない。

ルイ・マルは続く『恋人たち』で欲求不満な若妻の不倫の話を撮り、世間をあっと言わせた。こちらは当時卑猥だと言われ、かなり話題になったが、今観るとそこまで過激でもなく、モノクロのジャンヌモローの美しさにただただ、呆然とする見事な恋愛映画であった。そしてこちらも、とても30歳前の青年が撮ったとは思えない艶があった。

そしてルイ・マルは『地下鉄のザジ』を撮る事になる。ぼくにとってはどの映画よりも重要な一本だ。なにしろ『勝手にしやがれ』や『大人は判ってくれない』よりも先に観ており、未だにこの衝撃が忘れられない。

地下鉄のザジ』はなんて事ない話だ。母に連れられてパリに来たザジという少女、母は若い恋人と何処かへ言ってしまい彼女はガブリエル伯父さんの元に預けられる。地下鉄に乗る事が唯一の楽しみだったが、ストライキにより、乗れない事が分かると1人でパリ見物に出かける。そのパリでの出来事を映像化したものだ。

原作はレイモン・クノーの小説で、前衛的という言葉が当てはまるものだった。何しろ言葉の使い方や文法もおかしく、こちらもヌーベルバーグ同様、既成の小説に何かしらの挑戦状を叩き付けた物だった。この原作は59年(『勝手にしやがれ』と同年)に発行、たちまちベストセラーになり、この翌年に映画化される事になる。

地下鉄のザジ (中公文庫)

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この『地下鉄のザジ』だが、60年の映画とは思えないほどスタイリッシュでかわいらしくて、今観ても色あせない。映画というものを壊しにかかっていたヌーベルバーグの中で『地下鉄のザジ』は一番イカレてると言ってもいいだろう。とにかくストーリーの運び方、文法などあったものでもなく、スラップスティックコメディという枠の中でどれだけおもしろい映像を出し続けられるか?という実験的な作品になっているのだ。ジェリー・ルイスの『底抜けてんやわんや』は作家映画としてカイエ派の監督達から絶大な人気を誇っていたと聞く。『底抜けてんやわんや』も物語と関係無く、一言も喋らないベルボーイがドタバタとギャグを体だけで放ち続ける異色作で、『地下鉄のザジ』もこの『底抜けてんやわんや』に非常に近い物がある。ザジがパリに到着してからの36時間、ひたすら映像で遊んでいる作品なのだ。もっと簡単に言うとドリフのコントをスケールアップして映画にしたような魅力がある。

冒頭からすさまじい。恋人に会ったザジの母が、その恋人に抱きかかえられて、叔父に「ザジを頼むわよ〜」と言うのだが、何故かくるくると回転し続け、そのまんま駅の向こうに消えて行く。まぁ言うなれば全編この手のギャグに覆われた作品なのだ。ゴダールが発明したジャンプカットは全編で効果的に使われ、発明したゴダールよりもその使い方はうまい。スタイリッシュな映像を見事体現したその手腕はルイ・マルが型にハマらない映画監督だった事を示している。それだけでなく、サイレント映画のような早回しを走るシーンに使ったり、走ってるシーンで音楽にあわせてスローモーションと早回しを交互に使ったり、編集も見事、人物のクローズアップを交互に映して、恋した様子を表したり、長回しにパン、オーバーラップ、手持ちカメラ、鏡など、ありとあらゆるテクニックを駆使して、ザジの奇妙なパリでの冒険をシュールに活写。ストーリーに起伏はないが、全編見せ場のような映画で、見知らぬおじさんと追っかけっこするシーンではディズニーのアニメのようにアホらしい演出をし、ジェットコースターのように90分を駆け抜けて行く。

このようにシュールでドタバタした映画だが、実は『地下鉄のザジ』という小説自体が非常にバタバタしていて、言葉の使い方もシュールなのだ。前衛的な小説を前衛的な映像で映画化するという意味で、この『地下鉄のザジ』の方法論は間違ってない。

いたずら好きな女の子が主人公で、映像のお遊びという『地下鉄のザジ』は間違いなく『アメリ』に受け継がれている。赤い服を着ているという点も一致しているし、『アメリ』もラブストーリーなのに、かなりシュールな映像になっているからだ、ただ1つ違うのは『アメリ』はそのいたずらで人々を幸せにしていくが、『地下鉄のザジ』はただ単に口の悪い、悪ガキなのだ。この決定的な違いも現代版なのだ。

とにかく『地下鉄のザジ』はめちゃめちゃ笑えて、映画ならではのお遊びに満ちていて、全編映画的興奮の塊。『勝手にしやがれ』の登場から1年。小利口な映画=フランス映画というイメージを完全に打破した傑作である。

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