『回路』をDVDで久しぶりに鑑賞。
ぼくはホラー映画が苦手で、好んで観ることはしなかったのだけれど、この『回路』という映画に出会ってからは積極的に観るジャンルのひとつになった。元々黒沢清という監督もホラー映画を撮る人という認識がなく、観てたら監督が黒沢清だったというくらいホントになんの情報もない状態で観たのだが、とにかく衝撃的な作品で、これを観てから黒沢清監督のいわゆるホラーと呼ばれるものを片っ端から観ていったくらいだ。
映画は加藤晴彦と麻生久美子のパートに別れている。ある日、麻生久美子の同僚が目の前で自殺をした。部屋に残されていたフロッピーには自殺した同僚の部屋の画像が残されており、そこに写っていたのはパソコンの画面に入り込む謎の顔。不審に思った別の同僚が部屋を調べにいくと、そこには死んだはずの同僚がいた……。一方、加藤晴彦は機械オンチながらも一生懸命にインターネットに接続する。不慣れな手つきでキーボードを叩き、接続を完了させたら、パソコンの画面には見知らぬ人の部屋が写り、「幽霊に会いたいですか」という文字が浮かび上がる。不気味に思って、電源を消し、しばらくしてウトウトしていると、今度は勝手にパソコンが立ち上がってきて……というのが主なあらすじ。
加藤晴彦のパートと麻生久美子のパートに共通するのは、彼らを取り巻いている外側の世界がほとんど写されないということ。
言ってみれば、加藤晴彦には生活の匂いがなく、学生であることだけは提示されるものの、どんな友達がいて、どんな家庭環境なのかがまったく描かれない。麻生久美子の方は同僚や母親など、多少なりとも描かれるが、それがどんどん消えていくという、物語の重要なファクターに繋がっている。
人は自分のことばかり考えていて、あまり周りのことには関心がない、そして、人と人は点と点であり、絶対に結びつかない、繋がっていかない――――『回路』の中で描かれるひとつの要素はまずこれだ。
加藤晴彦も麻生久美子も映画の中で、目先で起こってることだけを追い続ける。それ以外のことは一切描写されない。そして彼らが追っていたものが同時に終わりを迎え、二人が必然的に出会ったとき――――そこで改めて周りを冷静に見つめてみると、それまで描かれていなかった「世界」が実はとんでもないことになっていたという物語の構造は、ホラーな要素に引っ張られ、それ以外のことを考えずに、映画を見て来た観客の思考と一致する。
そして『回路』で描かれるもうひとつの要素は、「人は死んだらどうなってしまうのか?」「人はなぜ死を恐れるのか?」そして「人はなぜ幽霊を恐れるのか?」である。これがそのまんま「人は絶対に結びつかない、繋がり合えない」という部分と呼応し、あのとんでもないラストへと繋がっていく。言ってしまえば、これは『ゾンビ』を幽霊に置き換えた作品でもあるわけだが、そのへんの答えは是非映画を観て自分自身でつかみ取って欲しい。
もちろんショッキングなビジュアルセンスはあいかわらず。特に中盤のワンカットで見せる飛び降り自殺と飛行機墜落のシーンはやはり衝撃的で、今観てもまったく色あせていない。いずれも麻生久美子の目の前で起こるわけだが、この二つのシーンがこれまた呼応しているあたりも非常にうまい。そこにいるだけのはずの役者陣もうまく黒沢清の世界に溶け込んでいて、加藤晴彦のようなチンピラですら浮いていない。
というわけで、これほどまでに様々な要素が有機的に絡み合う『回路』はホラー映画が苦手な人に是非観て欲しい一品。個人的にはゼロ年代を代表する邦画のひとつである。あういぇ。
- 出版社/メーカー: 角川映画
- 発売日: 2007/07/27
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