写真家と映画監督の違い『へルタースケルター』

『へルタースケルター』鑑賞。

世間的に人気というか、評価が高いであろう、蜷川実花が監督したAKB48の『ヘビーローテーション』のPVをぼくはあまり評価していない。

理由は至極単純でアイドルとしての魅力が引き出されてるとは到底思えないからだ。

美味しんぼ」でいえば、かけるソースや調理法に凝りすぎて、勝ちやすい料理を作ってしまうため、ほんらいの素材の味を活かしてないと海原雄山や団社長に指摘される山岡みたいなもんである。ゴテゴテした装飾や原色飛び交うドギツイ色彩に頼りすぎているきらいがあり、まず、素材の味を活かしかたを覚えないと、その装飾はただのハリボテでしかなく、センスがいい!とはならない。むしろ押し付けがましい*1

とてつもない情報量がワンカットに込められているだけに、本来ならザック・スナイダーのように、写真を一枚一枚じっくり眺めるようなモーション感覚で撮影すれば、まだ「中身はない」と言われつつ、それでもかっこいいという感想になるはずなのだが*2、そのゴテゴテした感じでスローを一切使わないからこういうことに――――――――まぁそれは個人の勝手な意見なので、もうやめておく。

映画『へルタースケルター』にも同じような印象を持った。

あらすじは割愛させてもらうが*3、まず「へルタースケルター」の映像化としてはギリギリ及第点をあげたいと思う。

そもそも、あまり話の筋がなく、ミステリーの要素をふくみながらも、それをりりこのストーリーにうまく絡ませることが出来なかった原作は、ひとつのお話としてそこまで完成されたものではないというのがぼくの評価である(その歪さ故におもしろいというのもある)。しかし、それをそっくりそのまんま構成し、映画用の脚本に仕上げたのは見事。あの突拍子もないオチは絶対に映画ではやらないだろう――――むしろ、いろいろな部分でかなり変えてくるだろうとふんでいただけに、意外と忠実なのには驚いた。それゆえに過激なシーンもそっくりそのままやっていて、いぬのえいがや、お涙頂戴の難病もの、テレビドラマの延長線上みたいな映画がシネコンのメインとなっているこの時代にはかなりインパクトがあるのではないだろうか。

監督自身が写真家であるということもあって、フォトセッションシーンのリアリティったらない。これは原作にはなかった映画ならではの部分である。さらに舞台を益若つばさなどが活躍する、今現在に設定したことで、現実との地続き感があり、キレイなモデルが雑誌の表紙を飾って売り上げが伸びればそれだけでカリスマになり、誰でもそこから女優になれるという現在の芸能界/映画界を皮肉った内容になっていて、ついに時代があの作品に追いついてしまったというのを映画にすることで再認識させたのは最大の功績である。

特にそれらを体現したキャストには最大級の賛辞を送りたい。主役の沢尻エリカはもちろんのこと、まったく別人ともいえる冴えないマネージャーの寺島しのぶはいちばんのハマり役じゃないかと思えるほどで、うさんくさい実業家の窪塚洋介、マンガならではセリフを諳んじる大森南朋、そのまんまマンガから抜けだしてきたような桃井かおり、おねえ系のメイクさんである新井浩文、そして生まれながらにして究極の美を持ち、りりこよりも若いライバルとして水原希子など、そのアンサンブルを見ているだけで満足した。

――――が、じゃあ『へルタースケルター』の映像化ではなく、一本の映画としておもしろかったか?と聞かれれば答えは「NO」と言わざるを得ない。

この作品を見て一番最初に思ったことは「あ、これキューブリックで『ブラック・スワン』をやりたかったんですね」である。まず、その出発点からしてそうとうダサいのだが、さらに引用の仕方にセンスがない。「2001年」の部屋を赤く塗っただけだったり、「美しく青きドナウ」や「第九」のあからさまな使い方、さらに早回しなど、これみよがしすぎて見てて恥ずかしかった。キューブリックの演出は当時誰もおこなってなかったアイデアなので、それが強烈な作家性という刻印になり、それそのものをそのまんま引用するとキューブリック色が強すぎて、とたんにそのシーンがあのキューブリックに犯されてしまう。ゆえにバートンの「チャーリーとチョコレート工場」や「WALL・E」、「グッバイ・レーニン」、「色情男女」のように思いっきりパロディ化しないと、映画になじまないという先人の教えを分かってない。

先ほど書いたようにスローを使うべきところで使ってなかったり、特報の一番最初のカットのようなじーっくり見せることをしないため、いまひとつその独自の映像美を堪能できなかったり、あげくの果てに魚の水槽をバックに尋問される場面では、その水槽のところで映画の撮影してるんですよーという言い訳めいたカットまで差し込んだり、普段のシーンから原色がキツすぎて、後半のトリップしていくシーンの効果がまるでないとか、あー、とにかく細かいことを言い出したらキリがないが、この作品が『ブラック・スワン』になれなかった最大の理由は役者を追い込んでないということだ。

確かに沢尻エリカはハマり役だし、そうとう頑張っているのだが、もっと本来ならば頑張れたはずである。ヌードもただ脱いでいるだけという感じだし、後半、薬に犯され、別人のようになっていかなきゃいけないのに、まったく変化はなく、結局、そのシーンを切り取ってもキレイな沢尻エリカのまんまで、そこまで情緒不安定に見えないのだ。

これは写真家と映画監督の違いなのではないかと考える。つまり写真家というのは劇中でも出てくるように、筆写体にたいして、キレイだねー、かわいいよーと言って、のせてのせて表情を切り取る。映画の演出において、それと同じことをするのは正解なのだろうか?もっと女優を追い込んで追い込んで、極限の状態のものをおさめてこそ、その輝きが発揮されるのではないだろうか?石井隆の映画がそうであるように。

あまり『ブラック・スワン』を引き合いに出すのは申し訳ないのだが、『ブラック・スワン』はナタリー・ポートマンの女優人生をそのまんま映画に移し替えた作品だ。清純派といわれ、女優として一皮むけなかった彼女にたいして、残酷ともいえる役を監督は与え、さらに徹底的に追い込んだ。彼女はガリガリに痩せ、バレエも踊れるようになり、これまで見せなかった演技を心の底から体現した。

『へルタースケルター』も同じじゃん?と言われるだろうが、原作と映画の相違点のひとつとして、実は映画の方が沢尻エリカの女優人生をなぞってないのである。原作にあった「テレビで問題発言をして、そのまま干される」というシーンがなぜか映画版にはないのだ。

恐らく、あまりにもということで、沢尻エリカ側からNOが出たのだろうが、これがあるとないとじゃ大違いで、りりこが何をキッカケに転落していったのかの決定打にかける(ただ倒れただけじゃ、過労や病気という言い訳がマスコミにきくため)。そしてそれが沢尻エリカの人生とシンクロしないのだ。

そういう妙な配慮みたいなものが見え隠れする時点で、沢尻エリカが役に浸かりすぎて、体調をおかしくしたということにも疑問が出てくるわけだが、せっかくここまでのものになっただけにその追い込みがないのはかなり惜しかった。

というわけで、なんとも奥歯にものがはさまるような感想になってしまったわけだが、ぼくのスタンスとしては「ここまで映画化してくれたらまぁ満足かなぁ……ただ、おもしろくはないし、人には絶対におすすめしない」という感じ。とりあえず沢尻エリカを久しぶりにスクリーンで堪能したいという人のみ観ることをおすすめ。1800円払うのなら、1000円で原作を買って、スタバのコーヒーを飲みながら読んだほうがお釣りも来ていいかなと……

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

*1:とはいえ、映像に生気がなく、ただただ気持ち悪いだけのキリキリよりは数百倍はマシ

*2:『告白』のオープニングみたいなヤツ、よく「これは映画ではない」っていわれるアレ

*3:というか予想以上に長くなってしまったため