実はフィンチャー印満載の傑作『ゴーン・ガール』(ネタバレあり!)


注・超絶ネタバレです。さらに他のデヴィッド・フィンチャー監督作についてもチラッと言及してます。


ゴーン・ガール』鑑賞。

あらすじをざっくり説明すると結婚記念日に奥さんが行方不明になり、もしかしたらお前が殺したんじゃないか?と疑いをかけられてしまう旦那の話。

M・ナイト・シャマランSF映画やヒーローもの、心霊映画など、ありとあらゆるジャンルをすべてサスペンスにしてしまうが、フィンチャーもジャンル映画をそのまま撮らないということがわりと多く、もっといえば謎解きやドンデン返し自体にあまり興味がないように思える。

たとえば『セブン』だ。事件が起きて犯人を追うというミステリーの体裁をとっているが、三分の二くらい話がすすむと犯人があっさり自首してくるという通常ではありえないような展開が待っている。しかもモーガン・フリーマン演じるサマセットは住んでる街に嫌気がさしていて「もうこんな罪だらけの街は我慢できない!みんな死んでしまえばいい!」と常日頃思っていたら、犯人がおなじ動機で殺人を犯していたことを知る。衝撃的なラストで語られがちだが、ある意味で主人公はサマセットであり、映画のテーマは『タクシードライバー』なのだ*1

ファイト・クラブ』もそうでドンデン返しこそあるもののあまり重要ではなく、社会への鬱屈した怒りが前面に押し出されている。『ソーシャル・ネットワーク』はマーク・ザッカーバーグの自伝をやるといいつつ「リア充死ね!」という想いを発端にインターネットというシステムに戦いをいどむ男の話だし、『ゾディアック』もフーダニットをほったらかしにして事件そのものにのめり込んでいく人を描いたノワールで、『ドラゴン・タトゥーの女』もリズベット側から見ると「世の中はクソだ。クソだけども生きていかなければならない」というテーマがみえてくるし、なによりも謎解き部分はこまかく描写されない。

フィンチャーは「体制への怒り」というのを好んで扱うが、これは映画のシステムや構成をこわしたいという衝動とも呼応するのだ。

ベストセラーを映像化した『ゴーン・ガール』もまったくそういう映画だった。

一見、「アンビリーバボー」みたいな感じで展開していくが、見終わったときに「上質なミステリーを見たなぁ」と思う人がどれくらいいるだろうか。様々な感想が飛び交っているなか、必ずといっていいほど「夫婦や恋人同士で観にいきたくない」、「結婚が怖い」というのが混ざっており、フィンチャーがミステリー部分に趣を置いてないことがよくわかる(実際事件の裏ではこんなことが起きてましたという説明部分はホントにどうでもいいといわんばかりに矢継ぎ早に展開されていく)。

派手なカメラワークはほぼなく、事件が発生してからはエスタブリッシング・ショット(状況説明)以外、登場する人の思想や視野に近い状態で映像が撮られており、世間ではこの事件がどういう風に扱われるのかがわかりにくいのは主人公がそれを見ようとしないからである。故に画面の外で行われてることにとてつもない手間がかかっており、わざわざ記者が家の周りに集まってくるシーンもたくさんの人を集めて配置しておきながら、ものすごく遠くで一瞬しか映らない。これは『ゾディアック』とは真逆のやり方といえる。

映画の構成もおもしろい。夫の話、嫁の話、夫婦の話に分かれているが、そのなかでもさらに山が三つあるように展開され、観客の興味をつねに引っぱっている。これは『ドラゴン・タトゥーの女』で見せた五幕構成をブラッシュアップしたような感じで、あれで実験したのかな?と勘ぐってしまうくらいだ。

もうひとつの見方として「世間から注目を集めていた人の過去を、ある証言や書物から紐解き時間軸をずらして明かしていく」というのがあるが、円環構造でもあることから、これは実は『市民ケーン』を下敷きにした『ソーシャル・ネットワーク』にも似ている*2。主人公のしていたことが世間にバレて嫌われるというところも一緒である。

しかもフィンチャーはこれをコメディとして撮っている。『フライト』や『リトル・チルドレン』と一緒で、中盤になると笑いの基本中の基本である「緊張と緩和」が繰り返され(パターゴルフでやっほっほーとか、命からがら逃げてきたフリしてきた嫁に「このクソ女が」と言ったり、その他いろいろ)、会話のテンポも早くなり、ちょっとしたスクリューボールコメディのようになる。ただし、これをデタッチメントに撮っていて、音楽もホラーのような旋律なため、コメディと呼ぶにはどうか?という分かりにくい絶妙なラインを保っている。もちろんベン・アフレックアゴをイジるなど、直接的な笑いもあるが。

それだけではなく、フィンチャーらしからぬ繊細な演出も見られ、冒頭の人生ゲームにしても主人公はたったひとりのピンでゴールまで向かっていたり、電話によっていろんなことが阻止されてしまったり、中盤で奥さんは貧乏人になりすますために訛りを強くしたり*3、グミのくだりにしても、ネコを撫でる仕草ひとつとっても、今までのフィンチャー映画と比べるとメタファー的なものがわりと多い(ように感じる)。それは派手なカメラワークを封印したからこそより見えてきたということなのだろう。

ドラゴン・タトゥーの女』を観たときにフィンチャーらしさを感じたのは容赦ないレイプシーンとオープニングのかっこよさだけだったが、それから比べるとキャッチーな部分は皆無だ。ミステリーとして魅力がないという意見もわからなくはない。ただ、フィンチャーらしさを普遍的な物語のなかに隠し、三回転半ひねりみたいな展開のさせ方で夫婦の話に着地させ、さらに笑えないコメディをホラーっぽく味付けした『ゴーン・ガール』は素直に彼の新境地でありながら、そのモチーフに磨きをかけた洗練された傑作と言っていいのではないだろうか。


さて、ここからはぼくの勝手な解釈を書くが、ぼく自身この映画を観て思ったのは『アイズ・ワイド・シャット』に似ているなということである。


先ほどあらすじを書いたが、ネタバレありで本質的な部分を抽出するなら、「夫婦喧嘩して家出した嫁がなんやかんやあって夫の元に帰ってくる」という話で『アイズ・ワイド・シャット』の逆バージョンだといえなくもない。あの映画でトム・クルーズは不可思議な体験をたくさんし、嫁のところへ戻り、そしてお互いの腹の底が見えたうえで、夫婦として一緒に暮らしていくことを選ぶのだ。

かなり大雑把だが、原作がそうなのかは別にして最終的に夫婦の話に着地してしまうところといい、それまでのことはなかったことにしてあげるわーんというところといい、どうもフィンチャーは『市民ケーン』に続いて、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』に挑戦したのではないかと想像する。実際『アイズ・ワイド・シャット』もコメディ要素が強く、トム・クルーズを若干バカにしたような感じで、そのへんのイジりも共通点が………あと、これは殺されるとまではいかないものの、ここにいたらマズいと考えた嫁が計画的な殺人をして帰ってくるエグい『不思議の国のアリス』なんじゃないか…………というのはさすがに言いすぎか?

とはいえ、いろいろ書いておきながら印象に残ったのは陥没乳首と中出しさせた状態での殺人シーン……あのふたつだけでこの映画は観る価値ありだと思う。

おすすめ動画:マクガイヤーさんの『ドラゴン・タトゥーの女』解説。これそのものが『ゴーン・ガール』の解説なんじゃないかと思うくらい本質をついていて、参考になります。ぶっちゃけここからかなりパクってます。マクガイヤーさんごめんなさい。

*1:脚本を書いたのはアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーだが、内容に共感したフィンチャーがこれを絶対に映画化したいと動いた

*2:町山智浩氏がポッドキャストで指摘していたが、それよりも早くブログに書いていたということだけはいっておきたい

*3:ナマニクさんより教えていただきました