ガルシアの首を持ってこい!


かわいい娘を妊娠させたとして怒り狂った組織の大ボスが、ガルシアの首に懸賞金をかけた!その日暮らしに嫌気がさした主人公は恋人と共に、一攫千金を狙ってガルシアの首を探す旅に出る、だが、ガルシアの首を狙う者は他にもいた…

ガルシアの首を持ってこい!」という強烈なオープニングから始まる西部劇らしいストーリー、メキシコという乾いた土地がらが醸し出す空気感、首を見せずに描く生々しさと暑苦しい映像、金よりも己のプライドと意地だけで歩き続ける男を見事演じきったウォーレン・オーツの渋さ、バイオレンス描写とスローモーションはあいかわらずのキレ味、そしてサルサチックな音楽――――映画として緩い部分もあるが、プロデューサーと戦い続けたサム・ペキンパーが自身最も納得の行く編集が出来たと語り、その緩さも含め、今では熱狂的なファンを持つカルト作が『ガルシアの首』だ。

男の美学、悲喜、哀愁、乾いた風土、復讐心、スローモーション、バイオレンス、銃撃戦と、とにかくペキンパー印。これに恋物語を乗せることで、男の復讐にさらなるカタルシスが倍増される。ペキンパーの集大成的作品だが、この『ガルシアの首』はB級というレッテルをあらゆる所で貼られている。オールスターキャストではないし、低予算だからなのだろうが、この低予算を逆に活かし、ロケを多様した映像は今までのどの映画にも似ていない映像を作り出す事になったし、オーディションから新人を拾った事でハリウッドの型にハマっていないイセラ・ベガという才能を発掘する事にもなった。

ガルシアの首』は男の映画かと思いきや、実は女が主導権を握ってる映画である。ハッキリ言えばペキンパーの中でも女の匂いは少ないのに、すべての原因は女にある映画なのだ。

ウォーレン・オーツ演じるベニーは『スカーフェイス』のトニー同様、つっぱる気持ちだけは強い。もっと言うと、彼は基本的に臆病者。強がってネクタイが取れるシーンや夜でもサングラスをかけてるというところに「ヒーローになりたい」男の願望が現れてる。その男の事を尊重しながら女がすべての行動を作っている所がペキンパーの中でも異色なのである。

さらにこの作品は映像が安っぽい。映画的な映像とはまったく違う匂いのある映像である。これは狙った演出で、監督は徹底的なロケハンで撮影場所を吟味。そして撮影の際には「ここにあれを置け」とか一切言わず、実際にある場所に何も足さずに撮影した。映画的にはならなかったかもしれないが、現地の空気感や生々しさなどがダイレクトに伝わる映像になり、それが証拠にある雑誌では『この映画は全カットが完璧に絵画として描けてる』という評価をされた。

ラブストーリーとして見ても深い。互いの想いを言葉ではなく、表情で演じきっている。セリフは少なく、役者の表情をクローズアップで捉えていく。彼が繊細な演出を出来るのは『ケーブル・ホーグのバラード』を見れば明らかだが、このようなシークエンスもペキンパーの真骨頂だ。

ここまで書いて来たが、この主人公を演じるのは相当な力量がないと無理だ。押し寄せる感情を波の様に表現し、現実離れしたストーリーにリアリティを持たせなくてはならない、さらにただのヒーローではなく、ベニーは薄汚れたおっさんなのだ。この役を体現したウォーレン・オーツはまさに国宝級の演技を披露する。『ガルシアの首』は彼の唯一の代表作となったが、これを観るとウォーレン・オーツが過小評価された役者である事が良くわかる。

相手役を演じたイセラ・ベガも娼婦の役なのだが、時に母になり、女になり、妻になり、子供の様にもなり、しまいには聖母の様な輝きを持つ。

この作品の唯一の謎は彼女の行動だ。レイプシーンでの行動なのだが、何度見ても未だに理解出来ない。ペキンパーは男と女を描く時に絶対に差別をしない人だった。どの作品でもハリウッドの定型である、かっこいい男やキレイな女は出て来ず、人間的に最低な部分と優しさを併せ持った人ばかり登場する。誰しも心の奥底には反モラルなことを抱えているので、この演出は人間を描くという意味でもっとも正しい方法なのだが、それでも謎なのである。

きっとペキンパーは「人間はいろんな行動をとって、それを映像化して来たけど、やっぱりオレにとって理解出来ないのは女だった」なんて思ってたのかもしれない。そう言った意味でも『ガルシアの首』は女の映画だと言いきれるのである。

参考資料:『ガルシアの首』コレクターズエディション。