「映画」にしようとするとこうなる『さや侍』

さや侍』鑑賞。松本人志監督三作目。

松本人志の前二作はどちらも、「ヒーロー」や「神」といった、ある種の「カリスマ」に対し『拝啓、ジョンレノン』的なアプローチでもって「そこまで偉いもんじゃないんじゃない?」と問いかけた作品で、それはつまり観客/ファンに「オレは笑いの神とかカリスマとか言われてるけど、そこまでのもんちゃうで、ペヤングとかも食べる普通のおっさんやで」と告白したようなものであった。

それは「松紳」という番組で「あまり下から奉られるのもどうかと思う」とボソッとつぶやいた言葉にも集約されている。

「孤高のカリスマ」であった松本人志が、神格化されているのを嫌っていたというのはすごくよく分かる話で、それは何故かというと、単純に「笑い」の邪魔にもなるからだ。

若手と積極的に組んだり、後輩につっこませたりしてるのもそういう神格化されたものを払拭し、普通のお笑い芸人としてお茶の間に現れたいという欲求があるからだろう。後輩がびくついていては番組の進行にも差し支えがあるし、それはナインティナインとの共演でも実証されたことである。ダウンタウンになりたいというフォロワーは山ほど日本に現れたが、「山崎邦正みたいなキャラクターも実はうらやましかったりする」と本にも書いてるように、天才は天才としての悩みがあるのだ。

そんな彼の心情がそのまんまパーソナルなものとして爆発したのが、この三作目の『さや侍』である。

脱藩し刀を捨て、追われる身になった侍が御用となったが、彼に処された刑は「三十日の業」というもの。母を亡くした悲しみで笑顔を忘れてしまった若君を笑わせるために、1日1芸を30日間続け、笑わせることが出来なければ切腹、笑わせることが出来たら無罪放免。果たして彼は若君を笑わせることが出来るのか……というのがあらすじ。

今回物語を大きく牽引するのは、「まったく笑わない人を笑いを知らない人が笑わせる」というものだ。主人公にはオブサーバーが付き、放送作家のようなブレーンと共にどうしたら若君を笑わせることが出来るのか?について健闘し、奮闘する。笑わせる方法は至って単純。漫才や言葉によるものではなく、体を張った、誰もが分かる万人ウケしそうな古典的なものだ。

主役を演じたのは演技未経験の野見隆明。演者としてのカリスマ/松本人志が作り出す雰囲気をいらないと判断し、ベタでもいいから単純に「笑い」だけを追及したいという姿勢を鑑みれば、このキャストは適役だったように思える。実際、監督松本人志に徹したことは英断だったし、國村順も伊武雅刀もほとんど顔と存在感だけのキャスティングだったが、これが大成功。板尾創路柄本時生もコンビとしてよかったし、当然ながら子役も達者でかわいらしい。今挙げた人たちの役柄はパーフェクトだった(今挙げたと書いた理由は後述)。

じゃあ、果たしてそれが映画として、さらに笑いとしておもしろかったか?と言われると「うーん…」と奥歯にモノがはさまってしまう。

まず、単純にこの映画はやはり松本人志主演でやるべきであった。

「刀を捨てた侍が笑いに立ち向かう」という物語の特性上、お笑い芸人ではなく素人を選んだのは正解だったとしても、それが笑いにつながるか?と言われるとかなり難しい。物語とは関係なく「笑い」だけを抽出するのであれば、どちらかというと“あの”カリスマ的存在である松本人志が、鼻フックをしたり、人間大砲をしたり、体中に墨を塗りたくって壁に激突したりしたほうが滑稽でおもしろかったのではないか?『大日本人』と『しんぼる』を作った際、「今回ぼくは出たくなかったんですけど」と言っていたが、やはり役者松本人志というのは魅力的なんだなというのが今回改めて浮き彫りになった。皮肉なことにカリスマ性を捨て、普遍的な芸人にもなりたかったはずの彼が、今回、この『さや侍』という映画においてはそのカリスマ性を武器に笑いに出来たのだ。

さらに『さや侍』は映画としての体裁を整えようとして、かえってほころびが目立ってしまった。

前二作は映画として明らかに破綻していたが、それがとてもおもしろかった。世間的にかなり酷評されたが、それは「映画」としてダメだったからであり、その映画ではない「なにか」が松本人志にとっての『映画』なのだから、ああいう形になるのは至極当然で、逆に言えば松本人志が撮るのであれば、それくらいのことはしていただかないと困るのだ。

その酷評がかなりこたえたのか、今回はかなり劇映画としてのなにがしにぐっと寄せているのだが、それが失敗している。

元々映画監督としてのスキルがない人が、「映画」を撮ってしまったら、ハッキリ言ってなんのおもしろみもない。特に如実なのが、説明的なセリフを説明的に喋るりょうとROLLY腹筋善之介の三人のやりとり。ナレーション的な役割を果たしているとはいえ、あまりにも口調は一本調子で、そんなセリフ喋らないだろうというものばかり。それだったら、『しんぼる』の演出――――アメコミみたいな絵をドーンと画面に出して、それで説明的なものを数秒で観客に分からせるというような、突拍子のないものでよかったのではないか。全体的な間もタイミングも正しいとは言いがたい(ま、それが普通の映画ではないという所以なのだが)。

『しんぼる』の場合、端から不条理なところに投げ込まれてるというのが画で分かるので、ルールがどうなってるとか、世界観がどうであるとかは関係ないので気にならなかったが、今回は物語をしっかりしようとしている分、設定の段階で気になるところがちらほら。

まず「三十日の業」のシステムがかなり曖昧。御用となり、牢屋にぶちこまれるのだが、娘と一緒に入れられるというのは時代考証的に正しいのだろうか?勉強不足なので、よく分からないのだが、じゃあ百歩譲って娘と一緒に入るというのが正しかったとしても、門番である板尾創路柄本時生が主人公の味方に付き、牢屋の中に入って、一緒に笑いの道具を使って、練習するというのもかなりアバウトな設定であると言える。そもそも彼らが味方になるプロセスがないのはあきらかにおかしいし、それであれば、板尾創路に娘を亡くした過去があって…というようなくだりを一言でも喋らせるべきではなかったか?分からないものを分からないものとして笑いに変えて来た人だが、それはまず、これがどういう状況なのか?としっかり画で説明出来ていたから成立していたことであって、その外側の説明がフワフワしていると、わけが分からないものを笑う以前に「え?どういうこと?」と、とっかかりの部分で引っかかって素直に笑うことが出来ない。

冒頭でROLLYたちが主人公に襲いかかって瀕死の重傷を負ってるのにピンピンしているという演出があるが、本当はどこかで死ぬはずだった侍が、スーパーマンのような体を持ってしまったがために死ねず、その刀の変わりに笑いという武器を手にして戦うというのがコンセプトなら伏線として機能するわけだが、あのラストを考えると今度は整合性が……『しんぼる』同様、主人公の心象や内面がちっとも描かれないが、そのせいで、なんで三十日の業をあれだけ一生懸命やってるのかが分からないし……

じゃあつまらなかったのか?と言われるとまぁそんなことはない。まず退屈だなぁとは感じなかった。始まってからあっという間に終わるし、泣かせようとする場面もポンポン進んでいくあたりもテンポがいいし、狙ってるのか出来なかったのか分からなかったが、あまり感情的なシーンで感情的にならないような突き放し方はさすが松本人志という感じで好感が持てた。

というわけで、好きなところ4に対して、「うーん…」と感じるところが6割という感じで、観終わったあと非常にモヤモヤしたわけだが、それでも、ぼくはきっと松本人志がまた映画を撮ったら観るだろう。傑作ではないが、次も観たいと思わせてしまう映画を撮れるのは監督として成功なんだと思う。みんなだって、この人が撮るんだから何かしらの奇跡が起こるはずと思って観に行くわけだし。おすすめはしないが、逆に前二作がダメだったという人は観てもいいのではないだろうか、あういぇ。

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