清く、正しく、美しい物事はどうも信用できねぇよ

19日夜
仕事の休憩中に『弥次喜多 in DEEP』の4巻を読んだのだが、その中でビックリする表現があった。

「わびし村の惨劇」という回なのだが、命を喰らう事で巨大化する怪獣とその怪獣に親父を殺された鳥が喜多さんの身体の中に入り込み、喰らい合うという話がある。んで、喰らい合った後に、そのまま抱き合って、身体も内蔵もぜーんぶ、グチャグチャになって、ひとつになるという絵が出て来るんだけど、これズバリ、セックスを表現してて、んで、なんでそれがセックスを表現してると思ったかというと。

ぶっちゃけ、これ私がよく頭の中で想像してる事だったりするんですよね。

なんかセックスしててですね、ギューって出来る限り密着したいわけですよ、しかも極限まで密着したいんです、全部一気に、汗とかよだれとかも含めて、とにかく強く強くギューってして、スキマが無いくらい、一つになりたい感が私は強くてですね、んで、昔『セックスの最中に、ギューってして、そのままズブズブと肉と肉がくっついて一つになりたい』って公言した事があって、誰に言ったんだったかな?すげぇドン引きされたんですけど、だから渡辺淳一の『失楽園』は全然共感出来ないし、全然おもしろくもなかったけど、二人が死ぬところあるじゃないっすか?アレだけはちょっと共感したりもして、そういう事を考えてる人が居たんだ!という事に感動しまして、自分としてイメージしたのはマシュマロをグニグニして、つぶすようなイメージだったんだけど、『弥次喜多 in DEEP』はちゃんと肉体をつぶして、内蔵とか飛び出して、血まみれになってってちゃんと具体的に書いてる(笑)

ええそうですよ、私は狂ってるし、究極のド変態なんです。だからそういうところでシンパシーを感じてしまった『弥次喜多 in DEEP』を私は推しますよ。

仕事終わりで、帰って、速攻ビールを飲む。やばいやめられない。

んで、藍坊主をiPodで聞きまくる。最近、藍坊主の『ポランスキーナ』という曲がヘビロテ中である。

ソーダ

ソーダ

聞けば分かる通り、エゴラッピンをそっくりそのまんまやっちゃいました的な楽曲で、ホーンやブラスを使ったアレンジや間奏のランニングベースやギターのフレーズ作りは昭和のキャバレーかい!と思ってしまう。それでも、換骨奪胎っぷりは見事で、メロディの作り方は誰がどう聞いても藍坊主になってるから驚く。ギターの音はアンプによる歪みだと思われるが、裏打ちなのに、高音を響かせないなど、独自の音になってるのも素晴らしい。

ぶっちゃけ歌詞をメロディに乗せると言う作業に関して言うと『ポランスキーナ』はあまり上手くはないのだが、サビで無理目の転調をしたりするところなんかは、同じアルバムに収録された『螺旋』と同じ手法であり、その辺も藍坊主らしい。

さて、歌詞の付け方こそ、もうちょっとと思う『ポランスキーナ』だが、その歌詞がホントに素晴らしい。私は歌詞カードをまったく読まないので、歌詞の素晴らしさに気づくのは大分後の方なのだが、『ポランスキーナ』はカラオケで歌った時に歌詞の素晴らしさに気づいた。特に「清く、正しく、美しい物事はどうも信用できねぇよ」というフレーズはホントに素晴らしいし、こういう事を正面切って言える藍坊主は偉い、偉過ぎる。

間違った歪んだ考え方かもしれないが、ホントに「清く、正しく、美しい物事」というのは信用ならない。人は誰でも純粋で居たいと思いながら、やってる事はほとんどが罰せられるような事ばっかりだ。大人になるにつれて、この世界に薄汚れて行く。それが現実で、それこそが人間として生きるという事なんだと最近思うようになったが、とにかくイノセントで居続ける事は難しい。誰もが孤独で、誰もが汚くて、誰もが人を傷つけ、誰もが自分の事しか考えてない。だからホールデンは妹をこの世界から守ろうと必死だったのだ。ただ、私は、自分が汚れきってて、恥の多い人間だとしても、根は何処か純粋で居たいと思ってるし、良い人間でありたいと思ってる。頭の中では何百人もぶっ殺して来たが、「これはやっちゃいかん」というブレーキがあるから、なかなか悪人になる事は出来ない。やっぱり人間の善意を何処かしら信じたいと思っている。それはみんなそうなんじゃないだろうか。

私の勝手な考えなんだけど、「映画や歌は世の中の汚いところをどんどん提示していけよ!」と私自身は思う。もちろんイノセントな唄がある事はいいのだけれど、ちゃんとそれ以外の部分も唄わないと、ぜーんぶウソに聞こえてしまうのだ。悪い部分を知ったところで「え?良い人だと思ったのに、そんな悪い事考えてるの?」とか思うファックなクソ野郎はほっといた方が良い。

だからMr.Childrenが『HERO』とか『Sign』を唄う一方で『LOVE』とか『ファスナー』を唄うのは素晴らしいと思うし、それは ASIAN KUNG-FU GENERATIONBUMP OF CHICKENもそうなのだけれど、ちゃんとシロとクロを唄い分けるのはアーティストとして当たり前なのだ。

とどのつまり何が言いたかったかというと、キレイごとばかり唄ってるヤツらというのはとにかく鼻持ちならないし、嘘くさいし、そういう上っ面な事だけ言って、金をむしり取ってるヤツらにしか見えないのだ、だから「みどーーーーり」や「キャロルの名曲をユニット名にしました」や「水の時間」の曲たちは「どうも信用出来ねぇよ」。ちゃんちゃん。

明日は手塚治虫の『ムウ』を探しに行こうかなぁと。あういぇ。