『フロム・ヘル』はコミック界のモンスターだ!


フロム・ヘル』を読んだ。本の帯に「眩暈のような読書体験」というキャッチコピーが付けられていたが、この言葉ほど『フロム・ヘル』を――――いや、アラン・ムーアの作品群を的確に表現した言葉はない。

ぼくにとって――――というか、『ウォッチメン』を読んだ人は誰だってそうなるだろうが、ぼくが『ウォッチメン』で受けた衝撃というのは相当なものだった。んで、この魅力を言葉で伝えるのがかなり難しく、「とにかく読め!読みやがれ!」としか言いようがないところももどかしかった。

何が衝撃的だったって、良い意味で「これはマンガじゃない」と思ってしまうくらいの読書体験。グラフィックノベルという言葉が一体何を指してるのか定義がよく分からないが、グラフィック=視覚表現、ノベル=小説だとすれば、「圧倒的な視覚的表現と小説のような情報量」という意味で、『ウォッチメン』はグラフィックノベルと呼べる(あとフランク・ミラーの『300』も)。簡単にいうと、『ウォッチメン』とはマンガでも小説でもない別な「何か」なのだ。

一つのコマの中にキャラクターの心情、歴史、空間、風景が、幾重にも折り重なり、いろんな意味を持たせるだけでなく、エンターテインメントとして、読者を飽きさせないことも特筆すべき点で、特にぼくが驚いたのは、マンガのコマという連続性の中で、手に持ったグラスが落ちながら、空間や時空を越え、その中にDr.マンハッタンという神にも近い男の哲学や思想が一貫されるシーン。ここは小説でも映画でも音楽でも描けない、新たな文法による、新たな芸術的体験で、こういうことをやろうとしてる人がこの世にいたと考えるだけで身震いするくらいの不思議なシーンであった。

そんな革新的な文学を作り上げたアラン・ムーアだが『フロム・ヘル』は、この特殊な手法を遺憾なく発揮し、本を読んでるとか、コミックを読んでるという意識はおろか、グラフィックノベルを読んでるという感覚さえ超越したかのような、それこそ“眩暈のような読書体験”が隅から隅まで詰まった作品だった。これはコミック界のモンスター、マンガ界の化け物である。

ウォッチメン』でも、登場するキャラクター全員や背景にある看板、新聞の文字一つ一つに意味があって、それが膨大な情報量でコマに押し込められていたが、『フロム・ヘル』では、マンガに登場する全ての人物、登場する建築物の一つ一つが最重要なものとして扱われていて、その質や量は『ウォッチメン』を遥かに凌ぐ。切り裂きジャック事件を一コマ一コマ丁寧に移し替えながら、歴史や人間、思想、哲学をコミックの中に違和感なく滑り込ませ、読む者に感動だけじゃない何かを味わわせてくれる。

言葉だけをガッチリ詰め込んだ章もあれば、それこそ、言葉もまったく無く、固定した絵で淡々と人間を分解する血なまぐさいシーンもあって、表現もめまぐるしく変わり、セックス一つとっても、映画で描かれてるようなキレイゴトとして登場することなく、仕事として、子供を作るという行為として、人間が愛し合う頂点として、いろんな意味を持たせて登場する。セックスだけでなく、殺人も、出会いも、建造物も、歴史も、いろんな解釈が出来るように登場し、見事に表現されて行く。

柳下毅一郎氏の翻訳も「これしかないだろ」というほど見事で、作品同様に、翻訳そのものがすでに特殊な文学として成り立ってるようなもので、何から何まで「こんなの読んだことない!」という驚きに満ちた作品だった。

巻末にアラン・ムーア自身がコマごとに解説している文章があって、一度読んだだけでは、完全に理解出来るというわけではないし、一筋なわではいかないが、まず単純にストーリーがとてもおもしろいので、値段に臆せず、手に取ってみることを心の底から推奨する。

後はなんとか柳下さんに『Lost Girls』の翻訳を……無理かなぁ。個人的にはあまり理解してないながらも、一番好きだったりするんだよなぁ…

とりあえず映画の『フロム・ヘル』観てないんで、借りて来ようと思った。全然違うものになってることは容易に想像がつくが…あと『トップ10』の続きも買わないと……あういぇ。

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 下

フロム・ヘル 下