あなたが見ている世界はぼくが見ている世界よりずっと美しい

「完全にお疲れ」

何が完全なのかは分からないが、いつものようにこの言葉を吐いて、職場のロッカーを出る。職場の後輩がよく使うフレーズだ。完全か不完全かで言えば、ぼくは不完全であって、完全に疲れてるというのは、不完全なぼくを完全にしてくれるような気がしている。だが、それはどうでもいい。

ロッカーから駐車場に繋がるエレベーターまでは数メートル。まったくたいした距離じゃないが、床に寝そべって、ゴロゴロ転がりながらエレベーターまで行きたい衝動に駆られる。両足をだらんとさせて、誰かに腕を持って引っ張って行ってほしいとも思うが、人間ってヤツはそう簡単にぶっ壊れないように出来ている。気づけばちゃんと地に足をつけて歩いている。

実のところ、そこまで疲れてはないのかもしれない、いわゆるサラリーマンと呼ばれる人に比べれば労働時間も出勤日数も少ない。それでも疲れてるんだから、ぼくという人間は本当に不完全な出来損ないだろう。ぼくは普通に遅くまで働いて、無駄に残業をして、家族の為に金を稼ぐなんていう事こそが完全な事だと思う。だから、家族の為に働いて、飲み屋で上司に対して愚痴をこぼしているあなたは完全体であると言える。

休憩室の明かりが廊下まで漏れている。誰かが居る証拠だが、ぼくは足早にそこを通りすぎる。下へ早く降ろせよとばかりにエレベーターのボタンをガチャガチャ押しまくる。階下からやってくるエレベーターがぼくを飲み込み「下に参ります」とご丁寧に話しかけた後、適度なGを浴びせ、地上へと降ろした。

駐車場にぺたんぺたんとクロックスの音が響き渡り、壁面に反響してぼくの耳に届く。深夜ならではの空気感、あまり心地良いとは言えない。魚眼レンズで覗いたような不可思議な空間、警備員のおっさんが出入り口にチェーンを張っている。

そのまま歩道を抜け、点滅している信号を見ながら急ぎ足で横断歩道を渡る。十字路の斜め向こうに面した田んぼをぼんやり見つめながら第五駐車場に行き、首から下げたポーチから鍵を取り出し、車に差し込んだ。キーレスならば、ポーチには入れずにポケットに入れておくだろう。

車に乗り込み、エンジンをかけ、iPodでジミヘンの『All Along The Watchtower』を爆音で流すとぼくは自然と車をバイパスの方に走らせていた。いつも仕事が終わった後、目的も無く車を走らせる事が多々ある。何かから逃げたい衝動の現れなんだろうなぁと勝手に想像する。若い女の子風に言えばプチ家出のもっともっとスケールの小さいヤツだ、シミュレーションだと言ってもいい、あくまでもぼくにとってはだが。誰も知らないところへ逃げたいという気持ちを拒むように無作為に並べられた信号機が一定のリズムで赤を刻んでいく。

女池インターから、バイパスに乗る。時折、何かに取り憑かれたようにスピードを上げて走る車がぼくを追い越して行く。そのまま暴走して事故って死ねばいいのにと心の片隅で思ってしまう自分が嫌になる。それどころか、世界など無くなってしまえばいいとさえも思う。そんな小さい事で世界崩壊まで考えるのだから、ぼくが満員電車やスクランブル交差点に毎日居たら、全員をぶっ殺してしまいたくなるだろう。

新発田までは30分、飛ばすわけでもなく、ゆっくり行くわけでもない、バイパスを走るにしては普通よりもダラダラとしたスピードになるのかもしれない。とにかく爆音でロックを聴き、そのグルーヴに合わせて車を走らせるだけ。

バイパスの終わり、新発田に入り、最初の交差点を左折した。発展してるんだかしてないんだかよく分からない路をひた走る。絶対に人など寄り付かないような寂れたゲーセンやパチンコ屋が乱雑に立ち並ぶ。深夜なので、営業しているのかしていないのかは不明だ。明かりも付いてない駐車場に田舎のチンピラが乗る様な白い旧型のセダンが停まっている。麻薬の取引でもしてるのかなと勝手に想像する、いざとなったら警察に通報してやる。

車が無いとどんだけ不便なんだよと言いたくなるような、いわゆる地方都市の路をひた走り、やがて青看板は胎内を示し始めた。胎内観音の文字が見えたところで、いよいよ街の灯りは無くなり、これぞ田舎という山道を走る。怪談話に出て来そうな、ふと車のミラーを覗くと、髪の長い女が居る様な雰囲気が漂い、爆音の音楽でもかき消せないじとーっとした怖さが雨上がりの気候と相まって取れない髪の毛のようにまとわりついてきた。追い打ちをかけるように林道の中に朽ち果てた墓場が見える。

胎内観音の駐車場で車を止め、エンジンを切って、外へ出た。明らかに街の中とは違う、森の匂い、山の匂い。空気や風とは別にこれらだけが、微粒子となって、ビーズのように丸まり、ぼくの鼻孔を駆け抜けるような感覚に陥る。

いつまでもここに居たいという気持ちと、とっとと帰りたいというアンビバレントな表情が指で弾いたコインの如く、くるくると回り続けた。ずっとずっとあてのない旅を続けたいという願望をほんの少しだけ満たした後、ぼくはまた車に乗り込み、エンジンをかけた。

ーーーーー家に帰ると、犬がワンワンと何故か吠えていた。そう言えば、昔の人は犬の鳴き声を聞いて「びよ」と表現していたらしい。どういう風に聞いたら「びよ」になるのだろう。「びよ」では明らかにもののけではないか、そんな事を思いながら床に就いた。