なぜ村上春樹にとって『リトル・シスター』が「愛おしい作品」なのか?

村上春樹が新たに翻訳したチャンドラー三作品を読んだ。

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さいしょに『ロング・グッドバイ』を読んだときに、はて、こんなにいろんなことが書かれた小説だったかな?と思った。いわゆるハードボイルド小説といわれるように、旧訳はもっとあっさりしているというか、かなりシンプルに物事や情景、人物描写がおこわれていた。それにくらべると新訳のワンセンテンスの情報量は異常ともいえるほど多く。旧訳では「白い眉毛」とされていたものも新訳になると「白いもののまじった眉毛」になり、一事が万事この調子で、会話も街の描写もやたらと細かい。

ラーメンにたとえるなら、旧訳は麺とスープのうえにチャーシューとネギをちらした程度だったが、新訳はそれに煮たまごとメンマともやしと白髪ネギがトッピングされてるといった具合だ。実際ページ数も新訳のほうがはるかに多く、読むのにも、それ相当の時間がかかった。

さすが村上春樹。文章力がある作家さんが翻訳するとこうも変わるかと感心したのだが、これは大きな誤解であり、あとがきによると、旧訳はいろんな文章がはぶかれているらしく、それをファンは不満に思ってきたというのだ。つまり村上春樹は原文を忠実に翻訳しただけということになる。

そのようにして生まれ変わったチャンドラー作品だが、新訳になったことで魅力が大きく増した――――いや、ほぼ別物になってしまったのは『リトル・シスター』だと思っている。

リトル・シスター

リトル・シスター

ハッキリ言ってぼくは『リトル・シスター』が新訳チャンドラーのベストだ。そして村上春樹は早く『プレイバック』を翻訳すべきだとつよく感じた。というのも、この『プレイバック』は『リトル・シスター』にとても似ている作品であり、同じようにファンからはあまり人気がない作品だからである。

チャンドラー本人が『リトル・シスター』は失敗作であると公言しているが、失敗作がカルト化するように、ぼくはこの小説が大好きである。ハッキリ言って、とてつもない作品だとも思う。純文学のような美しい文章に多彩な比喩はとうぜんながら、ハードボイルドなミステリーを軸に、哲学、人生の指南書、バックステージもの、ビジネス本とその形相がころころと変わり、さらにエッセイのような語り口になったりと、本筋から脱線に脱線を重ねるジャンル無視なハチャメチャな小説だ。途中で音楽評論や映画のメイキング本になり、あげくの果てにとってつけたようなドンデン返しがやってきて、古き良き香港映画のように唐突に終わる。読みながら、いったいぼくは何を読んでいるんだろう?というような気にさせられたくらいである。そういった部分が『ロング・グッドバイ』や『さらば愛しき女よ』ファンにとっては不満なのだろう。

たしかに本筋をおしすすめることに徹した『湖中の女*1』を書いた人と同じ人とは思えないくらい描き込みも多く、このシーンはホントに細かく書く必要があるのか?と何度も思ったが、それがものすごくおもしろく、読んでてニヤついてしまったこともしばしばあった。『さらば雑司ヶ谷』という小説のなかでオザケン論が展開されるくだりがあったが、あれの細かいのが全編にわたって散りばめられている感じである。

この多彩な描きこみは旧訳である『かわいい女』には決してなかった部分であり、実際に照らしあわせて読むと、旧訳はいちばん刈りこんでるんじゃないか?ってくらい大胆に省略されている。セリフがなくなってる部分もあるくらいで(旧訳は全作そういう翻訳なのかもしれないが、いちばんそういう風に感じた)、チャンドラー作品の中で比較的みじかい物語であるにも関わらず、旧訳と新訳では70ページも差があり、それが文章の装飾であるとするなら、その盛りつけはヤサイマシマシチョモランマ級であるといえよう。

そして、この『リトル・シスター』を読むと、清水俊二という人と村上春樹という人が、それぞれチャンドラーに何を求めていたのかがよくわかるのだ。

おそらく、清水俊二はチャンドラー作品に、こういう余分な装飾を「村上春樹ほど」求めなかった人なのだと思う。それが証拠に『プレイバック』のあとがきにて、清水氏はこう書いている。

「(『プレイバック』を読んで)いちばん不思議に思われたことは、ストーリーにあまり関係のない部分がいつもの作品にくらべて遥かに多いことである。そういう部分はどの作品にもあって、チャンドラーの魅力のひとつになっているのだが、『プレイバック』には、なぜこんなことを書いたのかと不思議に思われるほど本筋をふみはずしているところがある」


彼はこうした脱線をふくめ『プレイバック』にたいして「納得がゆかない部分がある」と三回も書いているのだ。

逆に村上春樹はどうかというと、翻訳した『リトル・シスター』にたいし、おなじくあとがきにてこう書いている。

「「すぐに脇道をそれて、気のきいたことを言ったり、悪ふざけをしたりする」ところが、逆にこの作品の魅力にもなっている。少なくともぼくはそのような部分を翻訳することでずいぶん楽しい時間をすごせた。「そうだ、こうでなくっちゃ」という気持ちにもなれた。」


清水氏はチャンドラーの「脱線を魅力のひとつ」と書いているが、村上春樹はまったく逆であり、そういった部分こそがチャンドラーの本質であると言い切っているように感じた(これは『ロング・グッドバイ』のあとがきにも同じことが書かれていた)。よくよく考えれば村上春樹の作品も文章そのものがおもしろいというのがほとんどで、伏線をはるだけはって、それを回収せず、オチを放棄して終わるみたいな話がおおい。もちろん『リトル・シスター』が「愛おしい」理由として、ヒロインがもっとも魅力的にえがかれてるとあとがきで書いてはいるが、これは好きな理由のひとつであり、そういったひとことでは説明できない魅力がほかにもつまっていたということなのだろう。

ぼくが『リトル・シスター』を読んでおもしろいと感じたのは、おなじように本筋をあまりすすめてくれない部分である。とくにこの作品にかんしてはこれがヒドい。もっといえば、なんども熟読し、翻訳までしている村上春樹でさえ「誰が誰を殺したのかと訊かれても急には答えられない」とまでいっているくらいプロットも練るだけ練って放棄している。そういった完璧でない部分があるからこそ、再読に耐えられるのかなとも思った。

文章が整理されながらも「ストーリーにあまり関係のない部分がいつもの作品にくらべて遥かに多い」という『プレイバック』を読んで、これはチャンドラーの中でもかなり好きなほうだと感じ、さらに新訳になった『リトル・シスター』にたいし「この小説の脱線は他のチャンドラー作品に比べてかなり(良い意味で)ヒドい」と感じたぼくだ。村上版の『プレイバック』がどのようになるのかまるで想像がつかない。ほとんどの人が『大いなる眠り』の新訳に期待しているだろうが、ぼくはいっこくもはやく村上春樹には『プレイバック』を翻訳してほしい。そして、その脱線をまたこころゆくまで楽しみたいと思っている。


あ、そうそう。言い忘れたが、『リトル・シスター』の冒頭、マーロウがオフィスにいるハエを五分以上も追いまわすという描写があるが、これもどうかと思うくらい執拗にえがかれている。ただ、これを読むとアルトマンが『ロング・グッドバイ』を映画化する際に、物語に関係ない「飼い猫のために夜中にエサを買いにいく」というシーンを作ったのも頷ける。あれは物語に関係ない部分にこそチャンドラー作品の魅力がつまってるということをアルトマンなりに表現したのだろう。川本三郎は『ロング・グッドバイ』を「従来のハードボイルド映画の定型を破った作品」と評しているが、実はあの映画はチャンドラーの本質を村上春樹同様に捉えたものだったことがよくわかるのである。


ちなみに、ここまでえらそうに書いてきたが、ぼくは『大いなる眠り』と『高い窓』は未読であり、さらに旧訳の『かわいい女』は途中で挫折したクチである。新訳のスタンスは『ロング・グッドバイ』よりも『長いお別れ』派であり、『さらば愛しい女よ』よりも『さよなら、愛しい人』の方が好きだ。

*1:が、この作品は比喩そのものが今度はかなり多い